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■■■ 「古事記」解釈 [2022.11.14] ■■■
[歌鑑賞42]千葉の葛野を見れば
【天皇】行幸で国の繁栄を寿ぐ
知婆能ちばの 加豆怒袁美禮婆かづのをみれば 毛毛知陀流ももちたる 夜邇波母美由やにはもみゆ 久爾能富母美由くにのほもみゆ
㊄(3-7)-(5-6)-7

    一時天皇 越幸
    御立宇遲野上 望葛野
    歌曰

千葉の  (栽培植物の)葉々が茂っている
葛野を見れば  葛野を見れば
百千足だる  幾千もの満ち足りた
家庭も見ゆ  家々とその祭祀場が見える
国の秀も見ゆ  国の素晴らしさが見てとれる

国見歌である。
なんの問題も無く、天皇として、気分上々で行事を務めただけに映る。
宇遲野に立っての行為であり、祭祀行為ではあるが、この地の勢力を後ろ盾にした政権構造を構築するとの意思決定の表明でもあろう。

実際、すぐにその地の娘 矢河枝比売を娶って、万全の体制に持ち込み、生まれた皇子を皇嗣と指定することになる。宇治は、この末子である宇遲能和紀郎子の地となる。もっとも、結局のところ、皇位は、"執食國之政"担当とされていた異母兄の大雀命に転がり込む訳だが。(「播磨國風土記」揖保郡大家里/大宅里には"宇治天皇之世"とある。 「山城國風土記(逸文)」謂宇治者 輕嶋明宮御宇天皇之子 宇治若郎子 造桐原日桁宮 以為宮室 因御名 號宇治 本名曰:木國許乃矣)
国見譚のなかでは、ここでの経緯が一番わかり易い。要するに、歌で国土を褒めるのである。すると、褒められた方はご機嫌になり、見返りが期待できるということのようだ。
 歌曰<千葉の葛野を見れば〜>
 故 到坐木幡村[@宇治]之時
 麗美孃子遇其道衢・・・
 ・・・明日入坐・・・・・・


歌の後で、麗美孃子に遇ったとされるが、それが矢河枝比売。
文章を<故>で繋げている以上、偶然出会ったのではなく、国見行事のお蔭。
御立宇遲野上 望葛野で、ここを治めると呪を称えた以上、その地のお嬢さんを娶らねばならないとも言えよう。

儀式自体は単純に見える。高台に登って眺めて歌を詠むだけ。それこそ、遊行のついで風だが、インパクトは大きいから、思い立ってすぐできるものではなく、周到なお膳立てがなされていると見た方がよさそう。
考えてみれば、何処だろうが人が入らないとすぐに木々で鬱蒼となってしまう国土であり、眺望よき場所などわざわざ創設・整備しない限りそうそう存在する訳もなく、意図しない限りそのような場所への道がある筈もなかろう。地図など皆無の時代に、地場の人の力を相当に借りずには国見行事などできる訳がない。
おそらく、地場でも、古くから極めてローカルな国見的行事があったか、襲撃見張り場としての軍事施設として、展望台的な場所が造られていたことを意味していると思う。従って、天皇の国見歌と言っても必ずしも新たに作成する必要は無く、地場で用いられている寿ぎ句をママ引用する方が正当用法の可能性が高い。
そもそも、見初められたお嬢さんの話をきかされた父親が、即座にそれが誰かわかる点から見て、半ば出来レース的行事であることは間違いなかろう。

そんなことを考えると、この歌の面白さは、家庭を持ち出している点にある。都の華やかさとは比較になる対象とは思えないが、勘が鋭く頭の回転も速そうな天皇だから、繁栄している様子を一目で見てとったのだろう。
瀬戸海圏と一体化しつつあった大和国とは一線を画す、敦賀に繋がる文化圏が存在しており、その勃興する経済の流れに乗ることの重要性を肌で感じ取ったのだと思う。

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