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■■■ 「古事記」解釈 [2022.12.8] ■■■
[歌鑑賞66]八田の一本菅は独り居りとも
【八田若郎女】一途に、貞節をまもり抜く、と
夜多能やたの 比登母登須宜波ひともとすげは 比登理袁理登母ひとりをりとも 意富岐彌斯をふきみし 與斯登岐許佐婆よしときこさば 比登理袁理登母ひとりをりとも
㊅ or ㊂+㊂(3-7)-7-(5-7)-7

    爾 八田若郎女
    答歌曰

八田の  八田の
一本菅は  一本の菅は
独り居りとも  一人で(寂しくして)おりましても
大君し  大君が
宜しと聞こさば  それで宜しいと仰せになりますなら
独り居りとも  独居でかまいません

内容はどうということもないが、返歌としては、構成を考えたよくできた歌だと思う。
前歌は㊇(短-長)-(短-長)-(短-長)ではなく、㊇(3-7)-(4-7)-7-(5-8)-7としたが、現代的構成なら、㊄(5-7)-(5-7)-7 + ㊂(5-7)-7に当たると見たから。
同じく返歌は、㊅(3-7)-7-(5-7)-7⇒ ㊂(5-7)-7 + ㊂(5-7)-7である。

あくまでも素人判定でたいした意味は無いが、機械的なリズム感を言っているのではない。この構成あってこそ、倭語の柔らかさを100%生かせているとみたから。
前歌は、天皇(一人称)が歌人であり、風景から始まり、一本の菅(三人称)・清し女(二人称)が詠まれる。返歌歌人は郎女(一人称)なので、大君(二人称)となるが、一本の菅を三人称としてよいのかは実は悩ましい。そこが現代日本語にも言える曖昧さでもあるからだ。もっとも、八田の一本の菅を八田郎女として比喩的に表現しているだけのことでしかないから、そんなことを気にする人はいないかも。

一般には、この歌、両者の深い愛情がわかる歌とされているようだが、男女関係を保つには歌の交換が必須な社会であることを考えると、現代感覚で読み解けば、もう"ほっといて"と返したと解釈する方が自然である。
ただ、御名代で経済的に支えてもらいたいなら、そのように受け取られる表現をする訳が無いが。

この天皇は、恋心から様々な女性を必死になって追いかけることはしないようだし、男女関係を終わらせなければならなくなれば、なんなく淡泊に解消できるタイプのように見える。”聖帝"称号はいかにも儒教的だが、男女関係も宗族概念を欠くだけでよく似ている。血脈維持の肝は正妻にあり、そこに愛情概念を入れ込む必要は全くない。その他の女性は戲遊的存在。家の安寧を乱さなければよいという以外になんのルールも無い。
八田若郎女とはそうした存在だったと考えることもできよう。
   天皇者 此日婚八田若郎女而晝夜戲遊
中華帝国では、古くから、戲遊相手たる妾は事実上金銭的商品であるが、文字を欠く倭国では構築し難い仕組みだし、女系性が色濃く残っていたり、歌垣的な男女関係構築を歓ぶ風土が根強いので、儒教型男女関係がうっすらとでも見てとれる天皇は珍しい。

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