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■■■ 「古事記」解釈 [2023.2.22] ■■■
[歌の意味27]「萬葉集」分類は「古事記」解釈由来
「萬葉集」は歌をわざわざ3分類(<雑歌><相聞歌><挽歌>)して収載しているが、その分類名称の由来や意味について納得いく説明がなされているとは言い難いものがあろう。
(多くの解説では、雑歌と挽歌は漢籍の「文選」に倣ったものとされることが多い。相聞歌は手紙のやり取りを意味するとしていると書いてあったりもする。素人からすれば、挽歌以外は、無理矢理漢語に当て嵌めただけとしか思えない説明だ。「文選」分類に同一用語ありというだけで、明らかに概念が一致していないだけでなく、その他の分類用語を何故使用しないのか説明しようがなかろうに。ましてや、「文選」用語では無い相聞を使う必要性について語ることなどできまい。)

ところが、「古事記」の歌を俯瞰すれば、それは太安万侶の考え方を取り入れていると云うか、提起されている歌の本質論に従っているとしか思えなくなってくる。
と云うか、実際は逆で、「古事記」の歌には3種類あることに、この分類から気付かされると云うことだが。
その辺りに触れておこう。

その前に、"本質論"と気軽に書いたが、そのセンスをご理解いただく必要があるので、シェイクスピア「オセロ」(@c.a.1604年) 一幕 三場の台詞を引用しておきたい。900年後成立だが、この気分を味わえるなら、何故にこの様な3分割になるのかすぐにわかると思う。
(ムスリム ムーア人で気高き軍人である)オセロの妻デズデモーナに恋心を擁く、(紳士たる)ロダリに、(オセロの旗手で悪党の)イアゴは仲介すると称して金を騙し取るシーン・・・
Iago:"・・・Our Bodies are our Gardens, to the which, our Wills are Gardiners.・・・ "[The Tragedie of Othello, the Moore of Venice, the First Folio (1623) ]
[坪内逍遙譯]イアゴ:"・・・人間の肉體《からだ》は花畑で、 精神《こゝろ》は其(手入れする)庭師なんだ。・・・"…英古文はどうなっているのか知らないが、翻訳英文はSpirit, Soul, or Mindと云った"精神"の用語ではなく、"Will"(Attitude, mentality or intention)を使用しており、両者は意味がダブルとはいえ、全く異なる概念なのでご注意のほど。

要するに、恋の問題は、男と女の個人が相対することで発生んするもの。儒教国ではないから、神権・王権を保持しているからといって、命令すれば成就するようなものではなく、「トゥーランドット」のカラフの如く、自らの名前をあかすことで求婚するという完璧な男としての意志表現から始まる訳で、直接相対して伝えるか、間接的に遣いを用いるかの違いは生じるが、どちらだろうと同じこと。それに女性が諾とするか、拒否に打って出るかは自由裁量である。これが倭に於ける恋路である。
そのコミュニケーションの核が<恋歌>。儒教国でない限り、一大、独立分野であるのは間違いないが、恋が成立しない場合も少なからずあるので<相聞>とするのは妥当と云えよう。

このような歌と、"撃ちてし止まむ"が異なるジャンルであるのは当たり前だが、それを始めれば細かく分別することになりかねない。しかし、<恋歌>と大きく違うのは、歌人が誰であるとか、歌詠み人の特徴はどうだこうだという以前に、コミュニティで伝承されている歌なのだから、男女当事者間の歌とは次元が異なる。ただ、内容は多岐にわたるから<雑歌>とするしかない。
表面的には<恋歌>を除いた<宮廷歌>ということになろう。ここらの考え方はすでに触れたが、要するに、<恋歌>と<祭祀/行事歌>という分類観では2大ジャンルとなる。間違い易いのは、<雑歌>と書くと、現代の常識からすれば<その他の歌(the others)>という意味になってしまうから。実際、「古今集」ではそのような定義の用語である。しかし、「萬葉集」では、冒頭から<雑歌>が始まり、それこそが表舞台の歌とされており、全く意味が異なるのは自明。(<雑歌>所収巻:一 三 五 六 七 八 九 十 十三 十四 十六)

ところが、この2つに当て嵌りそうにないのが<挽歌>。「古事記」では<大御葬儀歌>が4首が続けて収録されている以上、重要な行事歌ということで<雑歌>に当てはまりそうに思ってしまうが、その歌の当事者とは倭建命后御子等となっており、本来的には公的な宮廷歌では無いことがわかる。(御陵も私的に造られたと書いてあるし。)にも拘わらず、宮廷歌でもあるというアンビバレントな類なのである。このことは、故人を悼むことが挽歌の本質ではなく、異界に入りかけている魂のこの地への回帰を願って詠むことに意味があり、他の行事歌とは一緒にする訳にはいかないことを意味していそう。悲しみに打ちひしがれる一方で、歌舞の大宴会で魂を飛び戻そうという点に主眼があり、神を御呼びして開催することになる宮廷祭祀の大宴会での、降臨して頂く神を意識した歌とはいささか違うということだろう。

このことは、<祭祀歌>とは、いくつかの歌で形成されていて、収載されているのはそのうちの人々に愛されている、つまり独唱の後に、場の人々の斉唱が付随するような歌ということではなかろうか。
(神のご降臨を要請する歌があり、寄り付く巫女が神憑りして詠い、それに応えて歌が続き、一段落すると、場を変えて定番歌がアドリブを入れて始まる歌舞奏楽の宴会になだれ込むという情景が想定される。最初の段階は秘儀だろうから、歌が収録されることはなかろうが、言葉の記憶役が黒子的に同席していた可能性はあろう。マ、どうあれ、素人の想像でしかないが。)

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