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■■■ 「古事記」解釈 [2023.2.24] ■■■
[歌の意味29]宮廷音楽の歌詞嵌め込み
"実は"、歌についてどう考えるかは、「古事記」の本質をどうとらえるかを左右する大問題。
すでに軽く触れてはいることも少なくないが、再度、明確にしておく必要があろうと云うことで・・・。

"実は『古事記』も、この『日本書紀』を書き直して、宮廷音楽の歌詞をはめこんで、約百年後の平安朝初期に出来たものである。" [岡田英弘:「倭国 東アジア世界の中で」中公新書 1977年 序文]

もともと江戸期に国学が勃興し、反中華帝国的ムード(アンチ朱子学)に乗って見直されるまでは、「古事記」に関心を寄せる人などいなかった。文字を"読めない"ことが主要因だったろうが、国史の補助的文献とされていたのは間違いない。このような見方が正統とされていたのである。・・・その後、国際情勢に合わせて、ご都合主義的に時々で位置付けが変えられ来ただけ。今日に至ってもこの姿勢は全く変わっていない。

全体紹介文なので、"事実"と推論を分けて書いていないため、これだけではわかりにくいが、「記紀」読みを半ば強制される現代社会では極めてまともな見方と云ってよいだろう。
(何回も書いているが、国史とは、官僚の英知を結集して矛盾なきように編纂されたもの。国家の威信をかけて作成された公的書であり、それにそぐわない箇所が収載されなくて当たり前。万国共通の鉄則である。しかし、それを同時期に成立した「古事記」から復活させようと考えるのは無理筋。
もともと各種の異伝ありなので正統を確定せよとの勅命で「古事記」が作られたと序文にある。天武天皇の意向に沿って太安万侶という一個人の中位官僚がまとめたとも、はっきり書いてある。だからこそ、史書検討に使えると考えるらしいが、ピントがずれているとしか言いようがなかろう。そんな書を国史プロジェクトが容認する訳がないし、国史の権威を根底から覆しかねない成書を公開する道理もないからだ。もちろんのことだが、「国史」に二次的資料の「古事記」が引用されることなどあり得ない。)

そもそも、同時期に国家が異なる内容の史書を平行して作成する訳が無かろう。従って、「古事記」を史書とみなす通念に従うなら、公的な「日本書紀」を書き直して後世に作られたとの見方は真っ当そのもの。類似記載が多いのが"事実"である以上、「記紀」読みを推奨する裏にある見方は、それ以外になかろう。「唐書」のように、国史記載内容に不満が高まり過ぎ、朝廷が古代風な新たな史書を成立させること決定したことになろう。

もう一つ、宮廷音楽の歌詞をはめこんだという指摘も、その通り。だからこそ、小生は、「古事記」は口承叙事を文字にして残そうと苦闘した作品と考える訳で。(皇統譜の口頭読みも叙事の語りの一部とも思える位だ。)
要は、国史プロジェクトの方針がよくわからないのだ。・・・「古事記」の類似歌が目立つから、歌集主体の如き体裁とも言えそうな「古事記」とそこだけは似ているようにも見える。国史が編年体の事績記載を旨とするなら、歌が不可欠とも思えないが。ところが、公卿・官人が大勢参加する公式行事である日本紀講筵の終了後の酒宴で帝等を題材にした参加者の作歌が大々的に行われている。その一方で、勅撰史書としての続編「続日本紀」40巻(文武-元明-元正-聖武-孝謙-淳仁-称徳-光仁-桓武/697年〜791年)には和歌は数えるほどしか所収されていない。

この様な点を踏まえると、上記の中公新書の文は、極めて重要なものの見方を提起していることに気付かされる。

「古事記」とは宮廷音楽を取り上げた書であるとはっきり書いているようなものだからだ。
しかも、言葉を選んで記載してあるが、歌詞を埋め込んであるとしている。

誰が読もうと、「古事記」の地文と歌は一体化しているとしか思えないだろうし、歌人・注記歌名から考えても、宮廷で謳われていた叙事詩なのが歴然としている訳で。

この基本認識さえできれば、素人なら、「古事記」歌の意味などすぐに想定できよう。

"鷸羂張る・・・鯨障る"ならまだしも、"先妻が・・・肴乞はさば"という戯れの歌詞がどうして戦勝の宴に登場するのか、不思議なことはなにもない。
皇統譜の話になれば史的に忘れようがない勝利こそ、一大結節点だったことが示されているだけのこと。それこそ、敗戦止む無しと悟らされる様な、辛い苦闘の連続の日々が終わり、ようやく落ち着けるとの曙光が見えたからこそ、馬鹿々々しい内容ということになろう。泪目での、歓びの馬鹿笑い宴会になだれ込んだ情景が示されている訳だ。
それは、皇族にとって、なににも代えがたき想い出そのもの。代々伝えねばならない大事件だったに違いない。
従って、この歌の存在こそ、なんらかの史実を反映していることになる。それこそ、トロイの木馬同様、そこには史実が存在するからこそ、宮廷歌として伝承しているのである。

この様な戯れ歌を、国家の威信を発揮すべく編纂された国史に、何故に入れざるを得なかったかと云えば、その歌の強烈な思いと皇統譜は結合しており切り離せないから。それ以外に考えられまい。

---「古事記」「日本書紀」収載の同一/類似歌---
 武田祐吉[校註]「記紀歌謡集」岩波書店 1948年(「日本書紀」歌番号及び訳はこの本より引用。尚、「古事記」歌番号等はテキストに従っておりません。)
[__1]八雲立つ出雲八重垣妻籠みに八重垣作るその八重垣を
[__1]や雲立つ出雲八重垣妻ごめに八重垣作るその八重垣を
[__7]天なるや弟織機の項がける珠の御統御統にあな珠はや御谷二渡らす味耜高彦根の神ぞや
[__2]天なるや弟織女の頚懸せる玉の御統のあな玉はやみ谷二渡らす味耜高彦根
[__8]赤瓊は緒さへ光れど白瓊の君が装ひし尊く有りけり
[__6]明珠の光はありと人は云へと君が装し貴くありけり
[__9]沖津鳥鴨著く島に我が率寝し妹は忘れじ世の事々に
[__5]沖つ鳥鴨著く島に我が率寝し妹は忘らじ世の盡も
[_10]宇陀の高城に鷸羂張る吾が待つや鷸は障らずいすくはし鯨障る 先妻が肴乞はさば立ち柧棱の実の無けくをこきし聶ゑね後妻が肴乞はさば柃実の多けくをこきだ聶ゑね・・・
[__7]莵田の高城に鷸羂張る我が待つや鴫は障らずいすくはし鷹等障り 前妻が菜乞はさば立柧棱の實の無けくを扱きしひゑね後妻が菜乞はさばいち賢木實の多けくを扱きたひゑね
[_11]忍坂の大室屋に人多に来入りをり人多に入り居りとも みつみつし久米の子等が頭椎い石椎い持ち討ちてし止まむ みつみつし久米の子等が頭椎い石椎い持ち今討たば宜し
[__9]忍坂の大室屋に人多に入り居りとも人多に來入り居りともみつみつし來目の子等が頭槌石槌もち撃ちてし止まむ
[_12]みつみつし久米の子等が粟生には臭韮一本苑が本そ根芽繋ぎて撃ちてし止まむ
[_13]みつみつし來目の子等が垣本に粟生には臭韮一其のがもと其ね芽繋ぎて撃ちてし止まむ
[_13]みつみつし久米の子等が垣下に植ゑし椒口疼く我は忘れじ撃ちてし止まむ
[_14]みつみつし來目の子等が垣本に植ゑし薑口疼く我は忘れず撃ちてし止まむ
[_14]神風の伊勢の海の大石におひしにい這ひ廻る細螺のい這い廻り撃ちてし止まむ
[__8]神風の伊勢の海の大石にやい延ひもとほる細螺の細螺の吾子よ吾子よ細螺のい延ひもとほり撃ちてし止まむ撃ちてし止まむ
[_15]盾並めて伊那佐の山の木の間ゆもい行き瞻らひ戦へば吾はや飢ぬ嶋つ鳥鵜飼が伴今助けに來ね
[_12]盾並めて伊那瑳の山の木の間ゆもい行き守らひ戰へば我はや瘁ぬ島つ鳥鵜飼が徒今助けに来ね
[_23]御真木入日子はや御真木入日子はや己が命を窃み死せむと後つ戸よい行き違ひ前つ戸よい行き違ひ窺かはく知らにと御真木入日子はや
[_18]御間城入彦はや己が命を殺せむと竊まく知らに姫遊すも
[_24]やつめさす出雲建が佩る太刀黒葛多纏[巻]きさ身無しにあはれ
[_20]彌雲立つ出雲梟師が佩ける太刀黒葛多巻きさ身無しにあはれ
[_26]新治筑波を過ぎて幾夜か寝つる
[_25]新治筑波を過ぎて幾夜か寢つる
[_27]日々並べて夜には九夜日には十日を
[_26]かがなべて夜には九夜日には十日を
[_30]尾張に直に向かへる尾津の岬なる一本松吾兄を一つ松人に在りせば太刀佩けましを衣着せましを一つ松吾兄を
[_27]尾張に直に向へる一つ松あはれ一つ松人にありせば衣著せましを太刀佩けましを
[_31]倭は国のまほろばたたなづく青垣山籠れる倭し麗し
[_22]倭は國のまほらま疊づく垣山籠れる倭し美し
[_32]命の全けむ人は畳薦平群の山の熊樫皮を髻華に挿せその子
[_23]命の全けむ人は疊薦平群の山の白橿が枝を鬟華に挿せこの子
[_33]はしけやし我家の方よ雲居騰ち来も
[_21]愛しきよし我家の方ゆ雲居騰ち來も
[_39]いざ吾君振熊が痛手負はずは鳰鳥の淡海の湖に潜きせなわ
[_29]いざ吾君五十狭茅宿彌たまきはる内の朝臣が頭槌の痛手負はずは鳰鳥の潛爲な
[_40]此の御酒は吾が御酒ならず御酒[奇]の司常世に坐す石立たす少名御神の神祝き寿き狂ほし豊寿き寿き廻ほし奉り来し御酒そ浅ず飲せささ
[_32]此の御酒は我が御酒ならず~酒の~常世に坐すいはたたす少御~の豐壽ぎ壽ぎもとほし豐壽ぎ壽ぎくるほし祭り來し怨酒ぞ乾さず飮せささ
[_41]この神酒を醸みけむ人はその鼓臼に立てて歌ひつつ醸みけれかも舞ひつつ醸みけれかもこの御酒の御酒のあやに歌愉しささ
[_33]此の御酒を醸みけむ人は其の鼓臼に立てて𣤒ひつつ醸みけめかも此の御酒のあやにうた樂しささ
[_42]千葉の葛野を見れば百千足だる家庭も見ゆ国の秀も見ゆ
[_34]千葉の葛野を見れば百千足たる家庭も見ゆ國の秀も見ゆ
[_44]いざ子ども野蒜摘みに蒜摘みに我が行く道の香はし花橘は上枝は鳥居枯らし下枝は人取り枯らし三栗の中枝の穂積り赤ら乙女をいざ挿さば好らしな
[_35]いざ吾君野に蒜摘みに蒜摘みに我が行く道に香細し花橘下枝は人皆取り上枝は鳥居枯らし三栗の中枝の含隱り紅れる嬢子いざさかば良な
[_45]水溜る依網の池の堰杙人が差しける知らに沼縄繰り延へけく知らに我が心しぞいやをこにして今ぞ悔しき
[_36]水渟る依網の池に蓴繰り延へけく知らに堰杙著く川俣江の菱殻の刺しけく知らに吾が心しいや愚にして
[_46]道の後こはだ乙女を雷の如聞こえしかども相枕枕く
[_37]道の後古波儾嬢子~如聞えしかども相枕纏く
[_47]道の後こはだ乙女は争はず寝及惜しぞも愛思ふ
[_38]道の後古波儾嬢子爭はず寝しくをしぞ愛しみ思ふ
[_49]檮の生に横臼を作り横臼に醸みし大御酒美らに聞こし以ち飮せ麻呂が父
[_39]橿の生に横臼を造り横臼に醸める大御酒美らに聞し以ち食せ麻呂が父
[_51]千早振る宇遅の済に棹取りに速けむ人し我がもこに来む
[_42]ちはや人莵道の濟に棹取りに早けむ人し我が對手に來む
[_52]千早人宇遅の済に渡り瀬に立てる梓弓真弓い伐らむと心は思へどい獲らむと心は思へど本方は君を思ひ出末方は妹を思ひ出楚なけく其処に思ひ出悲しけく此処に思ひ出い伐らずそ来る梓弓真弓
[_43]ちはや人莵道の濟に濟り手に立てる梓弓檀い伐らむと心は思へどい取らむと心は思へど本邊は君を思ひ出末邊は妹を思ひ出いらなけく彼處に思ひ愛しけく此處に思ひい伐らずぞ來る梓弓檀
[_58]つぎねふや山代川を川上り吾が上れば川の辺に生ひ立てる烏草樹を烏草樹の木其が下に生ひ立てる葉広斎つ真椿其が花の照り坐し其が葉の広り坐すは天皇ろかも
[_53]つぎねふ山背河を河泝り我が泝れば河隈に立ち榮ゆる百足らず八十葉の樹は大君ろかも
[_59]つぎねふや山代川を宮上り吾が上れば青丹吉那良を過ぎ小楯倭を過ぎ吾が見が欲し土は葛城高宮吾家の辺り
[_54]つぎねふ山背河を宮のぼり我が泝ればあおによし那羅を過ぎをだて倭を過ぎ我が見が欲し國は葛城高宮我家のあたり
[_60]山代にい及け鳥山い及けい及け吾が愛し妻にい及き遇はむかも
[_52]山背にい及け鳥山い及け及け吾が思ふ嬬にい及き會はむかも
[_62]つぎねふ山代女の木鍬持ち打ちし大根根白白腕枕かずけばこそ知らずとも云はめ
[_58]つぎねふ山背女の小鍬持ち打ちし大根根白の白臂纏かず來ばこそ知らずとも云はめ
[_63]山代の筒木の宮にもの白す我兄の君は涙ぐましも
[_55]山背の筒城の宮に物啓す我が夫を見れば涙含ましも
[_64]つぎねふ山代女の木鍬持ち打ちし大根さわさわに汝が云へせこそ打ち渡す弥が栄なす来入り参来れ
[_57]つぎねふ山背女の小鍬持ち打ちし大根さわさわに汝が云へせこそうち渡す和桑枝なす來入り參ゐ來れ
[_68]高往くや隼別の御衣裾が料
[_59]ひさかたの天金機雌鳥が織る金機隼別の御襲裾料
[_69]雲雀は天に駆ける高往くや隼別雀獲らさね
[_60]隼は天に上り飛び翔り齋槻が上の鷦鷯捕らさね
[_72]たまきはる内の朝臣汝こそは世の長人そらみつ倭の国に雁卵產と聞くや
[_62]たまきはる内の朝臣汝こそは世の遠人汝こそは國の長人明つ鳥倭の國に雁子產と汝は聞かすや
[_73]高光る日の御子諾こそ問ひ給へ真こそに問ひ給へ吾こそは世の長人そらみつ倭の国に雁卵生と未だ聞かず
[_63]やすみしし我が大君はうべなうべな我を問はすな明つ鳥倭の國に雁子產と我は聞かず
[_75]枯野を塩に焼き其が余り琴に作り掻き弾くや由良の門の門中の海石に触れ立つ水浸の木のさやさや
[_41]枯野を鹽に燒き其が餘琴に造り掻き弾くや由良の門の門中の海石に觸れ立つなづの木のさやさや
[_78]大坂に遇ふや乙女を路問へば直には乗らず当麻路を乗る
[_64]大坂に遇ふや嬢子を道問へば直には告らず當摩徑を告る
[_79]あしひきの山田を作り山高み下樋を走せ下問ひに我が問ふ妹を下泣きに我が泣く妻を今夜こそは安く肌触れ
[_69]あしひきの山田を佃り山高み下樋を走しせ下泣きに我が泣く嬬片泣きに我が泣く嬬今夜こそ安く膚觸れ
[_81]大前小前宿祢が金門陰かく寄り来ね雨たち止めむ
[_72]大前小前宿彌が金門蔭斯く立ち寄らね雨立ち止めむ
[_82]宮人の足結の小鈴落ちにきと宮人響む里人も謹
[_73]宮人の足結の小鈴落ちにきと宮人動む里人も斎め
[_83]天だむ軽の乙女甚泣かば人知りぬ可し波佐の山の鳩の下泣きに泣く
[_71]天飛む輕嬢子甚泣かば人知りぬべみ幡舎の山の鳩の下泣きに泣く
[_86]大王を島に葬らば船余りい帰り来むぞ我が畳ゆめ殊をこそ畳と言はめ我が妻はゆめ
[_70]大王を島に葬り船餘りい還り來むぞ我が疊齋め辭辭をこそ疊と云はめ我が嬬は齋め
[_97]三吉野の小室岳に鹿猪伏すと誰そ大前に白す八隅知し吾が大王の鹿猪待つと胡坐に坐し白妙の袖着装束ふ手脛に虻齧きつき其の虻を蜻蛉早咋ひ斯くの如何に負はむとそらみつ倭の国を秋津洲と云
[_75]倭の小村の岳に鹿猪伏すと誰か此の事大前に奏す大君は其を聞かして玉纒纒胡床に立たし鹿猪待つと我がいませばさ猪待つと我がい立たせば手腓に虻かきつきつその虻を蜻蛉はや囓ひ昆ふ蟲も大君に奉らふ汝が形は置かむ蜻蛉島倭
[_98]八隅知し我が大王の遊ばしし宍の病み宍のうたき畏こみ我が逃げ登りし在峯の榛の木の枝
[_76]やすみしし我が大君の遊ばしし猪の怒聲畏み我が逃げ上りし在丘の上の榛が枝あせを
[109]潮瀬の波折りを見れば遊び来る鮪が端手に妻立てり見ゆ
[_87]潮瀬の波折を見れば遊び來る鮪が鰭手に嬬立てり見ゆ
[112]浅茅原小谷を過ぎて百伝ふ鐸ゆらくも置目来らしも
[_85]浅茅原小曾根を過ぎ百傳ふ鐸揺ぐもよ置目來らしも
[113]置目もや淡海の置目明日よりは御山隠りて見えずかもあらむ
[_86]置目もや淡海の置目明日よりは深山隱りて見えずかもあらむ

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