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■■■ 「古事記」解釈 [2023.2.27] ■■■
[歌の意味32]聴覚と視覚のリズム感は別
「古事記」は「萬葉集」より古い形式の歌が収録されているのは当たり前と思ってしまうが、本当にそう考えてよいのか、考えてみることをお勧めしたい。

"句の音素数で定型を規定する前段階の歌なので、「古事記」の歌の形式は多様。"

よく耳にするこの見方は現象論的に間違いとは思わないが、その考え方は頂けないからだ。

文字歌だと最初に形態的特徴が目に入る。このことは、どのような形式の構成になっているかを、最初に捉える習慣が自然に生まれてしまうことになる。そのため、事実上、そこが鑑賞の出発点になってしまう。
(・・・これは正確な言い方ではない。文字歌で出発している「萬葉集」は、明らかに定型たる五句の短歌集だからだ。従って、当時の"読者"は定型歌集との前提で接していることになろう。しかし、現代の解説では、他の形式も存在するとの説明に力をいれている。長歌は数では6%程度でしかなく、一応存在する程度の存在なのに。しかも、必ず取り上げられる"仏足石歌"に至っては僅か1首で、何故に注目しなければならないのか、説明を欠くため素人にはさっぱりわからぬ。)

文字無き口誦歌の世界では、歌の形式は単純な筈。「古事記」の歌を現代人から見れば様々に見え、多様な形式が乱立しているとしがちだが、その見方は避けた方がよい。謳われる前に予め形式がわかる分類がある訳がないからだ。片歌・短歌・長歌といった区別は文字表記後に発生したと考えるべきだろう。
(現代的に「古事記」の歌を記述するなら、|♩♩♩𝄽|♩♩♩♩|という拍で、対になる2小節毎に謳うことになる。そしてコーダは後の小節が繰り返される。拍と文字の対応は、一般的には|5文字𝄽|7文字|であるが、字余り・字足らずは何の問題もない。はっきり言えば、誰も句の文字数など考えていないのである。
これに、場合によって、定番の掛け声や、呪語を加えるに過ぎない。尚、四泊・1オクターブ・12音は、民族文化ではなく、何処でも自然に生み出てくるもので、模倣ではない。)


表現で重要なのは、あくまでも"音"としてのリズム感。
(常識的には棒読み五七五は口誦歌では拍たりえない。歌唱+舞踊のリズムなのだから。)
すでに知られている歌をママ詠みすることも多かったと考えれば猶更。

文字上では全く同一な歌といって、同じ歌と見なしてよいかはなんとも言えないことになる。"歌曰"とは、文字的な作歌を意味せず、単なる詠みなのだからだ。・・・発声上の工夫の余地はいくらでもあり、全く違った印象を与えることは難しいことではない。
例えば、同一楽譜でも、グレングールドの様に全く異なる演奏は可能。気分がのれば一部を変えてしまうこともあり得る。

口誦歌のこの様な特徴は、文字歌にも引き継がれているからこそ、派生歌だらけになる。純作歌より、その方が"しみじみ"するからである。
ただ、文字歌化すると、歌は叙事から抒情に変わってしまう。原作歌者の想いを重ねる手法といっても、意義は全く異なっている。

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