→INDEX ■■■ 「古事記」解釈 [2023.3.5] ■■■ [歌の意味38]黄泉国根国譚こそ叙事の典型 しかし、突然にして登場する黄泉国とは、高天原と伊邪那岐命・伊邪那美命が生んだ大八洲とどう関係しているのか想像のしようがなく、説明に窮する。神話だからそんなことは気にするなとは、国史プロジェクトが容認できる見方では無かろう。従って、この三貴~は伊弉諾尊と伊弉冉尊が生んだと考えるしかない。一連の~生みの集大成として「いかにぞ天下の主者を生まざらむ」ということで登場することになる。 ・・・極めて常識的な線と云えよう。 但し、黄泉の国が関係している伝承を消し去る訳にもいかないので、参考記載は行っている。 「日本書紀」卷一神代上 ❺≪次生・・・≫海 川 山 木 草で始まり、次が天下之主者ということで、日神 月神 蛭兒 素戔鳴尊。日・月神は送天。蛭兒は天磐櫲樟船で放棄。その次の素戔鳴尊は父母二神に無道とされ逐根国。 【一書曰:6/11】火神軻遇突智ーーー 伊弉諾尊 追伊弉冉尊 入於黃泉 【一書曰:7/11】拔劒斬軻遇突智ーーー読みの注的記載あり。 【一書曰:10/11】與妹相鬪於泉平坂泉国…伊弉冉尊は腐乱した遺骸ではない。 (伊弉諾尊) 乃散去矣 但親見泉国 此既不祥 矛盾なきよう無難にストーリーを構築せざるを得ない国史としては、考慮のうえで決定したのだろうが、これでは盛り上がりなどなにもなく、口誦叙事として伝承されるような作品のレベルに達しえまい。 太安万侶・稗田阿礼のコンビはそこらはそれこそ100も承知。「いかにぞ天下の主者を生まざらむ」を語れずに妻を葬らねばならなくなった、伊邪那岐命の悲嘆あってのストーリーだからだ。 本来なら、ここに恋歌(挽歌ではない)が組み込まれてもよい箇所だが、その代替として、音素文字表記ではないものの、詔の言葉が記述されている。・・・ 故 爾 伊邪那岐命詔之: " 小生は(5-9)+(6-7)の句構造として読むこともできると思う。 歌の前駆体であるものの、この言葉あってこそ、口誦叙事の美しさが際立つことになる。聴衆は、遺体に這いつくばってすがりついき、号泣する姿を思い浮かべ心を打たれることになる。 乃匍匐御枕方 匍匐御足方 而 哭 結局のところ、埋葬地は出雲辺り。 其所神避之伊邪那美~者 葬出雲國與伯伎國堺比婆之山也 ほぼその地の辺りに黄泉国が存在していることになる。 そして、伊邪那岐命は訪問することで死穢に接してしまい。禊へと進む。筋的には、地母神の死による貴~誕生というモチーフそのもの。 倭の叙事の核は恋であり、神婚であるから、このような観念が色濃い黄泉国より、死んでからの行く先たる根国の方が重要視されることになろう。 そこでの王権を握っていたのが須佐之男命であり、結局のところ、娘との婚姻を承認し、レガリアを譲渡し、さらに大国主という名称も下賜するという絶大な祝福を与えることになる。 「古事記」とは、その言葉ありきの口誦叙事。・・・ 於 於 於 而と於が用いられているから、地文の体裁に映るが、上記全文は須佐之男命こと大~の御言葉である。神々との交信は歌が基本であるから、ほぼ歌と同等と考えることもできよう。 ここらの感性は、律令国家化の道を驀進中の朝廷で編成された国史プロジェクトには全く期待できない。 現代の眼からすれば、ここでの「古事記」の叙事内容は、帝国観念と相反していると言わざるを得ないからだ。その性情はどう見ても島嶼型女系性社会の体質を示している。 根国大~の須佐之男命による執拗な虐めとは、父性そのもの。それは、自ら味わって来たのと同じである。 女系性に於ける父は孤立しており、息子は母親の庇護の下で生きていて、子にとっての父とは、愛情を注いでもらうということではなく、母親の愛情を独占うる上でのライバルに近い。子としては、父以上の強さを発揮し、所属している母の世界から旅立って行くことが期待されている。母系制社会では、母子の絆は強く、さらにその紐帯を強靭にしているのが兄妹・弟姉関係。夫婦間とは比べ物にならぬほど強く結びついているからだ。 須佐之男命のプロフィールは、倭国では、人々に愛される"強い男"の典型ということになろう。 (C) 2023 RandDManagement.com →HOME |