→INDEX ■■■ 「古事記」解釈 [2023.3.18] ■■■ [歌の意味51]神や王への讃嘆歌不要 いずれも多神であるが、伝承として残っているのは主神的地位の神が存在するからで、当然ながらその神は未来永劫に存在することが大前提になっている筈。内容的にはあくまでも神々の過去の事績譚の集成だが、その流れが将来へとずっと続いていく風情を醸し出していることがこうした神話のミソだと思う。 ところが、明らかに叙事を語っているというのに、「古事記」には未来永劫を感じさせる歌が無い。しかも、死後の世界に関する歌も無いも同然で、異界への関心も薄そう。 死者の世界は、地文で記載されているだけで、異界といっても八洲国内だったりするし、飛び去る魂を追いかける歌はあるものの、その行先はく白鳥が飛んで到達できそうな場所としか思えなない。異界といっても、現世世界に属しているかの如し。これでは、時間軸のずっと先とか、永遠性の意識に欠けるのは、致し方なかろう。(異界では時間の進み方が異なるというのが大陸の一般的な受け止め方だから、倭国は異なっていることになる。) その様な状況では、異界の支配者が超越的存在に映ることはなく、絶対崇拝も生まれにくいと思われる。 こうした倭人の精神世界を前提とすれば、経典宗教が成立する土壌はもともと無かったと考えるのが自然。ほぼ、この世の現象世界しか存在しないのだから、その世界観を超越するような思考が生まれる道理が無いからだ。(日本仏教は、こうした"うたかた"の現世を確認する宗教として登壇したので、経典宗教にもかかわらず、定着し易かったのかも。) ともあれ、インドやギリシアの叙事詩と、「古事記」との彼我の差は桁違いに大きい。 なんといっても、偉大で、超絶的な威力を発揮するのが、「神」という観念が全く感じられない点が特筆モノ。例えば、愛する妻のため、ココに宮を作るゾとの意志表明が、神の偉大さを描く歌と解釈することはとうてい無理である。"大國主"にしても、その名称とは裏腹に、コミュニティ守護という役割を自覚している形跡が全く見当たらない。 日本古代の英雄と目される倭建命にしても、収載されている歌が、英雄の偉大さを称える表現になっているとは言い難いし、不思議な感じがしてくる。 さらに、もう一つ目立つ点を加えておこう。 景観あるいは、自然を、地名を用いたりして詠み込んだ歌もあるものの、一つとして自然の雄大さや、超越的な凄さを表明している作品が無い。インドであれば、大河であり、雪山でもあるが、箱庭のような日本列島ではそのような感覚は薄いということでも無いと思うが。倭建命東征でも、富士山には目もくれないのである。 後世の和歌は叙景だらけになるが、それはあくまでも抒情に絡めたものであって、個人の感傷的情緒感発露に限りなく近い。あくまでも、歌人の現世感覚での表現であって、深淵なる大自然賛美を目指しているとは言い難い。 自然に接すること自体を人一倍愛好していそうで、心底感動することも多く、それを素直に表現する歓びが目立つものの、そこには<崇高なる自然>観が存在している訳ではないということになろうか。 これと同様な体質が、王権の扱いにも見て取れる。 一般に、王権賛歌は叙事詩には不可欠。それこそが民族的一体感を高めるものだからだろう。それ故に伝承されて来たとも言えよう。 ところが、天皇譚に収録されるのは、国見歌は例外的存在で、1対1での男女の恋歌だらけ。極めて私的な主題であり、常識的には、これでは王権賛歌どころではあるまい。このことは、倭国では、王権賛歌で権力基盤を固める必要性が薄かったということになろう。おそらく、王権の正統性を示す、神々に繋がる皇統譜が存在すれば、それだけで十分なのだろう。それさえ確認できるなら、古代から連綿と続く男女の御合が豊穣をもたらすという信仰が人々の心に"しみじみ"と響くのであろう。 と云うことは、国史では、皇統譜上の事績の、口誦伝承の記憶を想い起させるために歌を収録しているに過ぎないということになる。 (C) 2023 RandDManagement.com →HOME |