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2006.11.22
 
 


江戸時代礼賛派の体質…

 江戸時代礼賛派が増えているそうである。

 その内容は単純そのもの。

 戦争も無く、社会は安定しており、農民と職人が安心して生産に励むことができたというだけのこと。そんな社会だったから、人々は余裕を持って生きていけたそうだ。しかも、リサイクルの仕組みを構築し、環境破壊なしの、素晴らしい時代だったと、ベタ褒め。
 明治になって、この仕組みを徹底的に壊したお蔭で、その後ひどいことになったと言いたいらしい。

 とんでもない歴史の偽造である。

 江戸の地図を見ればわかるが、自然保護の思想など無縁。土地不足で、そこらじゅう埋立てたのが実情。火事も多かったから、寺や庶民の住居の強制的移転など当たり前。強引な街づくりと見て間違いあるまい。
 おそらく、神田川一体は墓地だらけになったろう。
 はっきり言って、為政者のご都合で作った、滅茶苦茶な都市である。よくいえば、年中スクラップ・アンド・ビルドを進めていたということ。
 東京の都市計画とどっこいどっこいである。
 その点では、江戸の息吹は今も受け継がれていると言うこともできよう。

 それに、エコ派が喜ぶ里山にしても、自然を守るためにでいた訳ではない。生活の糧を得るためには、できる限り開墾するしかなかったが、資材調達源も必要だったから、里山が必要だったにすぎない。防風林同様、実利的なものでしかない。

 モノを大切にするのも当たり前。生産能力は低いし、運搬手段は限られている。お金がなければ、修復・再利用せざるを得ない。それだけのこと。

 江戸時代がエコを考えた社会だったなどと喧伝するのは大間違いである。現在ほど大掛かりなことができなかったから、環境への影響が目立たなかったにすぎない。

 こんな話が不愉快な人には、1960年頃の社会の教科書を眺めてみることをお勧めしたい。
 煙突からモクモクと煙を吐く、工業都市を称賛している筈だ。・・・工業化に邁進したお蔭で、日本は貧困から脱することができたのである。

 そもそも、江戸の街が清潔だったのは、汚れ仕事を厭わない請負人が大勢いたからでもある。人として扱われない、奴隷以下の階層が、街の美しさを保っていたのである。
 それに、一般農民や大勢の職人が安定した生活ができた訳でもなかろう。取りまとめ役の首領は安寧な生活を送っていたが、大多数はどうやら暮らしていけた程度だ。それが、階級社会というもの。
 そんな社会を礼賛するのか。

 社会が安定していたというが、それは、徹底した管理が行われていたから。歴史の表には出てこないが、刑場の露と消えた、膨大な数の人々がいたことを忘れるべきではない。そんな社会の方がよいと考えるのなら別だが。

 こんなつまらぬことを書いているのは、江戸時代礼賛派のなかに、普通に学んでいる「歴史」を、為政者の都合に合わせた虚偽のものと呼ぶからである。
 おわかりのように、でっちあげ歴史がお得意なのは、実は批判側である。

 北朝鮮を理想の王国と叫び、ソビエト連邦の繁栄は千年続くと語ったり、ポルポトの貨幣経済脱却を素晴らしい実験と呼ぶ人達がいたが、全く同じ体質としか思えない。


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