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2010.3.12
 
 


雑感: オペラ“タイス”の感想・・・

NHKBSのオペラ番組に見入ってしまった。
■■■ 2010年2〜3月のNHKBSオペラ番組 ■■■
MET サロメ
ドクター・アトミック
ファウストのごう罰
タイス
つばめ
オルフェウス
ルチア
蝶々夫人
夢遊病の女
シンデレラ
ミラノ・スカラ座 ランスへの旅
ドン・カルロ
ミラノ・スカラ座
日本公演
アイーダ
グラインドボーン
音楽祭 2009
妖精の女王
バイロイト
音楽祭 2008
ニュルンベルク
    のマイスタージンガー
エクサン・プロバンス
音楽祭 2009
[3/13放送予定]
神々のたそがれ
チューリヒ歌劇場
[3/29放送予定]
カヴァレリア・ルスティカーナ
道化師
 2009年2〜3月のNHKBS放送には驚いた。これだけオペラ番組を揃えてくれるとは。
 個人的には、見たかったRenee Flemingの“Thais”(2008年12月)が流されただけで大満足。これだけで放送料金一年分の価値があった。
 もっとも、そう考えるのは日本人的ということでもある。すでに“MET PLAYER”があり何時でも見れるのだから。(“Thais”>>>)

 ついでだから、好みでないものも、さわりだけ眺めたが、つらいものがあった。自分がオペラ好きではないことを実感した。
 逆に、Elina Garancaの“La Cenerentola”(>>>)はたいして興味がなかったにもかかわらず、見切ってしまった。
 いくら音楽性が高かろうが、曙関のようなトゥーランドット姫ではちょっととなるのの正反対。シンデレラには適役であり、人気のほど納得といったところ。

 そうそう、これだけ一度に見ると、カメラワークが今一歩だと、せっかくの作品が生きてこないことにも気付かされた。

瞑想曲で有名なタイスはよかった。
 そんなこともあり、タイスの余韻が今も残っている。それは、才能と努力の塊のようなReneeの歌声に感激したというだけでない。

 間奏曲(“瞑想曲”)をソロで弾いた中国系米国人、いかにもHarvard、Juilliard出身といった感じのコンサートマスター、David Chanの言葉が印象に残った。
 紀尾井ホールで弾くように言われ(2006年)、気がのらなかったが、初めて演奏したそうだ。諏訪内さん優勝の時にチャイコフスキーコンクールに入賞した人でもあり、その気持ちはわかる。
 美しいメロディかも知れぬが、そんな大衆的な曲などつまらなぬというのは小生も同感だ。と言うか、多分日本の多くの聴衆もそう思っていたりするのではないか。しかし、ポピュラーな小品を演奏プログラムに入れる習慣はなかなかなくならない。

 さくらさくら変奏曲など典型。クラシックに慣れない人にも来場してもらうために設定すると聞かされることが多い。このため、ずっと、そんなものかと思っていたが、最近はなんとなく日本の考え方がわかってきた気がする。
 それは、誰が見ても力を失っている引退寸前の演奏者を暖かく迎える風土ともつながる。小生も、唇を当てる位置が不自然な感じがするランパルをわざわざ聞きに言ったりしたが、それはそれで楽しめるものなのである。技巧が素晴らしいとか、自己主張を感じさせることだけでは、気が滅入るということ。それに、高尚な趣味などとは言われたくはないだろうし。
 従って、演奏家は、ポピュラーな小品を、いかに楽しげに、品良く演奏できる力があるかを示す技量を必要とするということ。この力がないと、嫌われてコケル。それが日本なのではないか。

 そうそう、肝心のChanの演奏だが、技術的にひっかかるものがなかったといえば嘘になるが、タイス改心の宗教感が満ち溢れ素晴らしかった。

今時タイスという点が気になった。
 実は、タイスとはどんなオペラか見るまで何も知らなかった。METで喝采を浴びたと聞いていただけ。どうせ、Reneeの魅力だろうと見ていたのだが、それだけではない感じがする。
 と言うのは、ずっと上演されたことがなかった作品だからだ。その理由は、一応、歌うのが難しいからということになっている。しかし、小生はその内容にあるという気がした。
  → “Synopsis-Thais” (C) The Metropolitan Opera (“Dis-moi Que Le Suis Belle”[1分]あり)

 筋の基調は、美しい娼婦タイスによって街が堕落しているのを見かねた僧侶が快楽ではなく信仰生活に入るように説得し、それを受け入れたタイスが喜びのうちに天に召されるというもの。ただ、最終場面で、僧侶がタイスへの愛を自覚してしまい、必死にそれを伝えようとするが、すでに、その言葉は耳に入らない状況。
 特段おかしなところがあるとはいえない。それは、現代の視点で見るからだ。これは、ある意味、反宗教的な作品なのではないか。しかも、場所はエジプトなのである。

 このような作品が登場してくるとしたら、それは、米国でオペラを鑑賞するような層の心理状況を反映していると考えるのが自然。音楽とは、そういうものだと思う。そういう点では、タイスは意味深長。
 素晴らしいタイスを仕上げたが、その裏側には、米国が文化的に弱体化し始めたという気分があるのかも知れぬ。心理的に相当不安定な状況ということではないか。

音楽は時代感覚を反映するものだが、タイスとは何だろう。
 音楽だけで、そんな話をするのもえらく乱暴ではあるが、結構、歴史の流れがわかったりするもの。
 例えば、グレン・グールドの最初のゴルトベルグ変奏曲は確か1995年の録音。スターリン批判を行った無宗教のフルシチョフの時代の幕開けの頃。ご存知のように、グールドは、バッハを禁断のように扱っていたロシアで受け入れられたのである。伝統的な宗教感とは違うのは聴けばすぐにわかるが、これが心に染みた時代なのである。
 もっとわかり易いのは、ビートルズか。社会主義国家という自由を奪う仕組みのなかからみれば、音楽という世界のなかなら体制側から嫌悪されようが、自由に振舞え、実権まで握れるという“自由”を実感させられたのは間違いなかろう。

 そんなことを考えれば、タイスでジーンとくるというのは、不安な時代の始まりということかも。放蕩生活を反省して神に命を捧げる道を選ぶ娼婦と、論理で選んだ信仰の道を捨てても恋に生きたい僧の、ドラマティックな最後に、人々はどう感じ入ったのか気になる。

 そう思うのは、対テロ戦争といったところで、所詮は聖書の民の内紛と言えないこともないから。原理主義者と現実主義者の間の武力闘争でしかなく、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の対立にしても、セクト間の争いと見れないこともない。世界には、その枠組みの外で生きる人々もいるのである。聖書の民も、その存在がそろそろ気になってきたのではなかろうか。
 言うまでもないが、それは韓国とフィリピン以外のアジアのこと。そこは、一神教ではなく、経典はあっても聖書のようなものではない。そこに律法感覚があるようには見えまい。従って、その違和感たるやただならぬものがあろう。今までは、無視していたのだが、そうもいえなくなってきたということ。

異質文化に侵食され始めたのに気付いたのかも。
 間違えてはこまるが、政治・経済的に、非経典の民のアジアが勃興してきて覇権国の力が衰えるという政治・経済の話をしているのではない。
 覇権国なのにもかかわらず、文化の発信力が弱くなってきたと感じ始めたという状況なのではということ。

 それでは、どんな文化が優勢かということになるが、もしかすると、覇権国でもない、日本なのかも。日本から見れば、国廃れて、文化を残すといったところでしかないが。

 どういうことかご説明しておこうか。
 醤油のTERIYAKIが一般化し、SUSHI食が入ってきたという程度なら、エスニックの導入と片付けるだけ。こうした文化の移入の場合は、覇権国としては、かえって心穏やか。
 しかし、もしも、食の根本思想としての日本食が入り始めたらそうはいくまい。
 気になり始めるとどうにもならなくなるかも。と言うのは、日本食とは、理屈や規則で成り立ってきた訳ではなく、状況に合わせて適当に方針を変える融通無碍な代物だからだ。素材や調理方法はなんでもござれでバラエティ豊か。しかも、それを前提にした上で、細部の美しさや品質に矢鱈にこだわる。こんな流れが入ってきたとしたら厄介である。もともと、律法に従ってきた民としては気が滅入ってくるのでは。

 なにせ、これは“Made in Japan”の工業製品で発揮された特徴となんら変わらないからだ。カメラ、家電製品、バイク、自動車で終わるならよいが、これが衣食住の普段の生活にも入ってきそうだとなると、そうはいくまい。そんな流れを意識し始めたということ。
 要するに、地味、単純、簡素というアメリカンスタイルとは逆の流れが生まれているのである。逆撫でされるようなもの。

 その根源が日本なのかはわからないが、まあ他に考えられないというだけ。理解しがたい国でもあるし。
 だいたい、老人化が急速に進んでおり、経済低迷が続いているというのに、若者は世界一ファッショナブルな格好をしている。それだけでも、驚異的な話である。
 そうそう、若者が一日中携帯電話でメールをやりとりするのも、日本発の若者文化である。携帯文化では世界の最先端を走ってきたのは間違いないのである。お蔭で端末の機能はとんでもなく高度。海外は、その後追い状態と言ってよいだろう。ウオークマンと違って、製品は全く売れなかったが、文化だけは世界中に広がったのである。
 そして、日本の若者が常用するのが、清潔で明るいコンビニエンス・ストア。今では、発祥元とは似てもに似つかぬ、消費文化の発信地化している。狭い店内に、美麗な新製品が入れ替わり立ち代わり状態の上、どんなジャンルのものだろうがなんでもござれ。しかも、オフィス街だろうが、田舎だろうが、どこにでも入っていくのである。
 100円ショップに至っては、これでもかという微にいり細にいりの製品だらけ。
 今や、こんな文化がアジアに広がり始めている。いずれそれは米国にも伝染するかも。
 お洒落で機能的で細かな気配りがあるのが、理屈抜きで嬉しいという感覚が生活の場に広がって行くのである。
 どう考えても、ピューリタン的価値観とは相容れなさそう。どうなることやら。

 ご存知のように、今やアニメもAsia化が著しい。それは、アジアが世界の工場の役割を果たせるというのとは違う。アニメ好きの膨大な民が存在し、その文化が欧米に怒涛のように流れ込んでいるだけのこと。
 トマス・アクィナス系の信者とされるHerman Van Rompuy初代EU大統領が句人であるのも、実は、驚くべき話でもない。俳句が、世界的に流行してもおかしくないのである。

 タイスとは直接関係ない話をしてしまったが、そこまで連想してしまったのである。


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