>表紙 >目次 | ■■■ 聞き耳アワー 2013.8.30 ■■■ | |
| 親子の化石動物談話小学校や幼稚園の夏休み末期になると、どうしても、親子連れの会話を思い出してしまう。この時期、毎年のように交わされる話があるから。それは化石動物の世界。様々な場所で、展覧会が開催され、子供のしつようなご要求に応えて、親御さんが手を引かれて鑑賞にはせ参じ、ようやくにしてご帰宅の途の図。 子供は興奮冷めやらぬ状態で、買ってもらった本を大事に抱えたり、なかを眺めたりしている。一方、親はアー疲れたという感じで、いかにも義務を果たしたという調子で、子供に対応。その対比が絶妙なのである。 状況は違うが、昔、子供と親の感覚のギャップが面白いので、都バス内での母と子の尻取り遊びの様子を書いた覚えがある。こんな感じだったか。 子供:「トリケラトップス」、「トンマ」 母親: 子供の頭をゴツン 「そういう訳のわからぬものは駄目。」 子供:「トが無いんダモノ。」 母親:「カアサンなど、いくつでもあるわヨ。」 「先ず都バスがあるでしょ。都電とか。」 子供:「・・・。」 先日は、カンブリア紀最大の化石話を耳にした。こちらもなかなかのもの。展示会観覧の興奮さめやらぬ子供の方が知識人で、親は凡人というのがなんとも。化石本を眺めながらの会話のうち、奇蝦ことアノマロカリスの絵についての会話をとりあげてみよう。・・・ 子供:「シャコの化けモノみたい。」 父親:「これが、王者だったんだゾ。」 子供:「シャコの親分がなんで王者なの?」 父親:「・・・。」 なかなか鋭い指摘である。 古代の化石動物のイラストを見せられると、イメージが鮮明になり、どんなタイプの生物かがわかった気になるもの。 そりゃそうである。巨大で奇妙な形であっても、誰が見ても蝦に似ていると思う訳で、「シャコ」との指摘はなかなかのもの。シャコに、草原のライオンや、海のシャチのような、猛獣的要素など感じられる筈もなく、どうして王者なのかさっぱりわからないとの指摘は素直な対応だろう。 もしも、喰い付く口の姿が描かれていて、その獰猛さの説明でもあれば反応は全く違っていただろう。イラストの出来不出来で印象は180度変わってしまう端的な例だと思う。 と言うことは、化石本はピンキリの世界ということでもあろう。この例から想像するに、日本の場合、おそらく、キリの方が好評を拍しているのだと思う。伝えたいことがある訳ではなく、有名な化石動物が美麗に描かれていればそれで十分というだけのこと。解説は、本として「まとも」と見せるためのもの以上ではなかろう。 キリ中のキリは、どんな状況で生活していた生物か、見てきたかのような推論が「理由無しに」添えられているもの。親が文章を読んであげていることがあるのでわかるが、この手の本は始末が悪い。 インチキ効能を謳った見慣れぬ食品の説明のように感じたからである。面白い製品であるのは間違いないが、そんな解説になんの意味があるか考えると、不快な気分に陥るからだ。 化石動物の説明は、「そう想像する人もいるが、その理由は、・・・」との展開が見えないと、それはカルト布教となんらかわらない。 化石動物での、一番の問題は、外見を見せられてしまうと、どうしても類似現世動物の生活パターンの生物と見なしがちで、その発想の枠から逃れられなくなってしまうこと。イラストはそれを狙っているようでもあり、こまったもの。 重要なのは、似てはいるが、本質的な相違点は無いのかという点。そんな点が無いなら、注目される訳がないのにもかかわらず、そこには触れないものが主流のようだ。こまったもの。 アノマロカリスの場合、注目すべきは口の構造。捕食構造が凄い。しかも、カンブリア紀の海から見つかる化石動物としては体躯が最大。従って、食物連鎖の頂点と見る訳だ。 小生は、多少、強引さを感じる。こんな体躯で遊泳しても、すばしっこい動きが可能な生物を捕食できるとはとうてい思えないから。それに加えて、巨大でその姿を隠しようもないから、危険を察知され易そうだし。しかも、捕食されにくい巨大体躯化を、独自育児社会の構築で実現したとの屁理屈も可能だ。 (参考:blog古世界の住人) アノマロカリス類はカンブリア紀だけではない! 2011-06-04 08:07:11 アノマロカリスの脅威の捕食システム 2005-10-31 23:26:55 アノマロカリスの姿ががらりと変わってしまうかもしれない件について 2009-12-12 12:49:16 (参考:ナショナルジオグラフィック ニュース) アノマロカリス、実は軟弱者だった? Brian Handwerk November 4, 2010 苦笑いの目次へ>>> トップ頁へ>>> |
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