表紙
目次

📖
■■■ 「酉陽雑俎」の面白さ 2016.3.15 ■■■

金剛経のご利益

金剛三昧という仮名の倭僧が登場する話をした。[→]

わざわざ「金剛」としているところか見て、懇意にしている僧侶と見た。つまり、成式は仏教徒と推定する訳である。・・・段成式に関する解説は少なくないが、ここらの情報はほとんどは見かけないので、少し考えてみたい。

たいていは唐代著名志怪小説家とされている。全唐詩に31首収載されているから詩人でもよいのではないかと思うが、「酉陽雑俎」が余りにも有名なので、その著者として紹介される訳だ。
その割には、人となりはよくわからない。せいぜいが、"英俊瀟洒,彬彬有礼,活好動"と見なされている程度どまり。

もう少し、細かく見ると、こんなところ。新旧唐書情報だが。

父親は、憲宗/穆宗朝廷で宰相、さらに四川節度使も務めた段文昌。但し、父親は貧しい家の出身であり、苦学し、抜擢されて出世したようだ。
ただ、官位を得てからの子供なので、成式の境遇は完璧な"銀の匙"。
そして、縁故で秘書省校書郎(正九品上の書物校正/蔵書工作係)に任用される。
そんなこともあり、家には父が集めた貴重な書籍があり、仕事場では膨大な図書を自由に閲覧できた。従って、「博覧強記」的人物になったという説明が多い。それはそうかも知れぬが、好奇心旺盛で探索好きだったことの方が大きそうだ。
マ、この役職は詩人だらけ。仕事上で朋友になりがちであり、作詩と飲酒で遊ぶから、成式も半ば自動的に詩人/文章家になったということでは。(校書郎出身者:白居易、王昌齡、李商隱、錢起、元、李コ裕、薛隆、李端、朱慶餘、等々。)
多分、一番の友は隠遁生活に入ってしまった、李群玉だろう。
職種柄、熾烈な権力闘争を目にするから、その道を選ぶ人も少なくなかったようだ。

   「哭李羣玉」  [唐 段成式] (李羣玉=李群玉)
 酒裏詩中三十年,縱唐突世喧喧。
 明時不作禰衡死,傲盡公卿歸九泉。
 (禰衡=東漢人)

ただ、校書郎から、855年に、處州刺史の任に就いている。と言うことがわかるのは、"予大中九年到郡"と記載した文章が残っているからである。ご当地は、「好道廟的崇祀」だらけだったようで、それをどのように感じたかが別書に書いてある。

   「好道廟記」 [唐 段成式]
 何魂不斂於秋柏,氣不散於T蒿。
 若伯有見怪,據傳巫語,是時陸擅蛇虎,水制蛟
 道路絶,一境相恐。
  :
 予學儒外,遊心釋老,毎遠神訂鬼,初無所信。
  :
 以好道州人所向,不得不為百姓降誌枉尺,非矯舉以媚神也。


處州神雲郡は、鬼を尚び、先祖の霊のご加護信仰一色だったのだ。それこそ、病気になっても呪術対応。医師は呼ばない。
これは成式的感覚とは相いれない習俗だろう。
基本的に鬼の存在などどうでもよい話というのが基本姿勢だからだ。

それは、おそらく仏教徒だったからだろう。
続巻七「金剛経鳩異」には、それを示唆する記述がある。

 開成元年,於上都懷楚法師處聽《青龍疏》一遍。
 復日念書寫,猶希傳照罔極,盡形流通。
 拾遺逸,以備闕佛事,號《金剛經鳩異》。

 先君受持此經十余萬遍,應事孔著。
 成式近觀晉、宋已來,時人鹹著傳記彰明其事。


続巻には序文が無いので、どのような意図で書いているのかはよくわからぬが、この部分は、すでに出版されていた別な書を再収した可能性もあろう。

"倭国で一番好まれた経典は結局のところ「空」の般若波羅蜜多心経。金剛般若波羅蜜経はその続編のようなもの。「空」が言葉の概念ではなくなり、実践論が展開されているにすぎまい。金剛三昧はこの実践型瞑想修行に励む僧だったのでは。その辺りの特徴をよくつかんだ命名と言えよう。"と勝手な見方で書いてしまったが、成式自身も、毎日環らず金剛経を読む生活だった可能性もあろう。
「應無所住而生其心」の読誦を耳にして出家し悟りを開いた六祖慧能禅師[638-713]の姿勢に、成式は共感を覚えていたのではなか
ろうか。ロジカルな価値判断など所詮は妄想であり、さらなる迷いの世界に入っていうに過ぎぬという点で。

 不應住色生心,不應住聲、香、味、觸、法生心,
 應無所住而生其心。


「金剛経鳩異」は、先入観なしに読んでヨ、ということか。
ここには、全部で21の話が収載されている。もちろん、金剛教信仰のお蔭で救われるストーリー。その過半は、死にかかって冥途まで行きかけたが、救われ、人間界に戻ったとのストーリー。・・・
[3] 小將孫鹹・・・寫《法華經》
[4] 天崇寺僧智燈・・・常持《金剛經》
[5] 王從貴妹・・・常持《金剛經》
[7] 陳昭・・・轉《金剛經》
[9] 董進朝・・・常持《金剛經》
[12] 僧法正・・・持《金剛經》
[14] 健兒王忠・・・常念《金剛經》
[18] 百姓王翰・・・寫《法華經+金光明經》
[19] 高渉・・・念《金剛經》

仏教説話集とはちょっと違う感じを受ける。説教臭さとか、哲学とか世界観の吐露という訳ではないからだ。
と言うことは、「念《金剛經》」とは、瞑想にほかならず、その世界に入ってしまえば時間軸は主観の世界でしかないとのお話をしているのかも。
疾病から逃れた話も同じ類か。
[11] 僧會宗・・・發願念《金剛經》

一方、冥途ではなく、浄土話は2つしかない。
[8] 僧惟恭・・・念《金剛經》
[15] 何軫妻劉氏・・・常持《金剛經》


襲われても、難を逃れることができたから、ご利益ありといった話も。
[1] 張鎰相公先君齊丘・・・念《金剛經》
[2] 廂虞候 王某・・・我讀《金剛經》
[16] 王殷・・・常讀《金剛經》
[17] 百姓趙安・・・常念《金剛經》
[20] 豐州烽子・・・唯念《金剛經》
[21] 王孝廉・・・惟念《金剛經》


それ以外のご難を避けるご利益はマイナー。バラエティ豊かにしようという気はなさそう。
[6] 左營伍伯・・・念《金剛經》
[10] 陽鎮將王・・・常持《金剛經》 
[13] 沙彌道蔭・・・持念《金剛經》


布教の意図で書いているのではなさそう。おそらく、道教的呪術信仰とは全く違うことを示したかったのだろう。

(参考邦訳) 段成式[今村与志雄 訳]:「酉陽雑俎 5」東洋文庫/平凡社 1980・・・訳と註のみで、原漢文は非掲載.
 酉陽雑俎」の面白さの目次へ>>>    トップ頁へ>>>
 (C) 2016 RandDManagement.com