表紙 目次 | ■■■ 「酉陽雑俎」の面白さ 2016.3.16 ■■■ 廃墟寺巡礼續集卷五/卷六は「寺塔記」。長安仏寺歴訪の随筆。その「長安」だが、唐代に隋代の「大興」を改名したもの。そして、仏教全盛へと至る。 しかしながら、道教へ傾注する帝と反仏教の流れをつくろうとする勢力が力を持つようになり、ついに会昌法難[845年]。 インターナショナルな雰囲気の都は、急激に国粋主義に衣替えさられたのである。丹薬中毒で短命だったため、弾圧は比較的早期に収まったものの、その後、失った拠点が回復することはなかった。長安は仏教遺跡都市と化したのである。 もちろん、仏教寺院は、貴族官僚からの援助、信徒からのお布施、自立した営利活動の3本柱で運営されているから、理屈では復興可能と言えないこともない。しかし、有名な寺院はすべて権力を握る階層が建立したものであり、そのような時代に戻ることはできないから、仏教勢力は以後零落一途。 おそらく、成式はそんなことは十二分に予見していた筈。そんな気分での長安仏寺歴訪だったろう。 つまり、客観的立場に立って鑑賞している訳だ。情緒的感興や、仏教復興を念じているのではなく、文化財として冷徹な目で眺めていると言ってよかろう。 なにせ、長安の仏教寺院の数は半端なものではなかった。・・・ 城中一百八坊。韋述《記》曰:其中有折街府四,僧寺六十四,尼寺二十七,道士觀十,女觀六,波斯寺二,胡襖祠四。隋大業初有寺一百二十,謂之道場;有道觀十,謂之玄壇。天寶後所摯s在其數。 [「唐兩京城坊考」] 《記》=「両京新記」@玄宗時代 波斯寺=大秦寺 胡佩=波斯胡寺 当然、ピンキリだろうが、肥えた目を持つ成式にとっては、仏教文化の真髄とはコレというものの見方が確立していたに違いなく、そのお眼鏡を通しての拝見記と考えてよいだろう。 そういう意味では、「寺塔記」とは芸術文化論の書といえなくもない。 そのジャンルでは、晩唐の絵画史家 張彦遠[815-877]の「歴代名画記」[847年]が初とされているが、それと並ぶ書と考えてもかまわないのでは。 と言うか、そのつもりだったかも。羅漢や大師の肖像画、はたまた壁画について、一通り拝観した上でのコメントを記載しているようだから、徹底的な推敲を経た文章である可能性もあろう。 もちろん絵画だけでなく建築も含めてだから、唐代の佛教黄金時代の芸術論的と見なすこともできよう。 ここらの時代の宗教的作品を鑑賞するのは、実は、現代人にはかなり難しいものがある。 仏教のモチーフや根底に流れている思想は、残存している経典からの想像でしかないからだ。それはいかようにも読めるし、よくわからないところがある。 なにせ、玄奘にしても、あえて意訳せずに、梵語の音を当て字にするだけという、呪術的な教本に仕上げることを目指していた訳で。建築や絵画にしても、同様な思想が流れている筈だが、そこらは現代人には自明ではない。つまり、勝手な解釈で評価するしかないのである。それを防ぐには、その時代に生きている人の生の声を聴かねば。 特に重要なのは、仏教経典から生まれたモチーフに中華帝国内の民俗文化がどう組み込まれているか。 これは、成式なら、お見通しだった筈。我々は、それを行間から読み取らねばならぬのである。 参考になるかはわからぬが、以下に記す程度は踏まえておかないとよくわからないかも。 訪問した寺院は当然ながら長安の東側だらけ。もちろん、貴族と高級官僚が好んだ地だからだ。(下に一覧添付) 最初に取り上げるとしたら、それは大興善寺。長安最大の寺だったのだから。密教経典翻訳を行った寺なので、渡来僧修行はココと決まっていたようなもの。もちろん、新都造営を期して建立された広大な敷地と壮麗な堂宇を擁する国寺。ただ、日本の渡来僧からすれば、密教だと、青龍寺(隋代:霊感寺)も重要視されるのだが、成式にはその感覚はなさそう。 と言うことは、特に気になっていたのは光宅寺や保壽寺かも。そこは、宦官のメッカの地域だからだ。(要するに天子の場所に一番近い所)。 視野が広く反国粋主義の成式にとっては、資聖寺の状況も見ておきたかったろう。日本では円仁滞在で知られるが、宮廷と東の春明門の間に位置し、おそらく渡来僧だらけだった。当然ながら、その一角は国際色豊かで大いに賑わっていたに違いない。 菩提寺 寶應寺 浄域寺 奉慈寺 趙景公寺は東市の東西隣の区画に位置する。隋の時代から続く、交易国家を支えた都会の経済の中心地といってよかろう。「市井」という用語の発祥の地なのかも。ただ、西市の方が非官僚の来客層に依存していそうだから、そちらの方が圧倒的に国際色豊かだったのは間違いなさそうだが。 ともあれ、成式がこの世を去って40年もすればこれらすべてが灰塵に帰すのである。長安と呼べる状況ではなくなり、西にある仏教都市遺跡化。成式はそれを予感していた気がする。 言うまでもないが、現代に残るのは遺跡と言うよりは、一部を除けば痕跡さえない状態。成式の文章を読んで感慨にふける以外に手はないのである。 頃は843年。メンバー3名で。 段成式字名柯古 張希復字名善繼・・・秘書省(成式と同職) 鄭符字名夢複・・・尚書省 最大の寺から巡礼と相成ったが、◆慈恩寺◆では、すでに会昌法難[845年]に向けた寺院のリストラが始まって騒然としていたのである。 そして、広西に転勤し長安に戻ったのが853年。 10のうち5〜6が壊滅的被害をうけている惨状を目のあたりにした訳だ。(毛沢東は、この数字は生ぬるすぎたと見て、文化大革命では徹底破壊を目指したのはご存知の通り。) このことは、仏教徒の方々に伝えておかねばなるまいということで2巻にまとめたとされる。 武宗癸亥三年夏,予與張君希複善繼同官秘書,鄭君符夢複連職仙署。 會暇日,遊大興善寺。因問《兩京新記》及《遊目記》,多所遺略。乃約一旬尋兩街寺,以街東興善為首。二記所不具,則別録之。遊及慈恩,初知官將並詩,僧衆草草,及泛問一二上人,及記塔下畫跡,遊於此遂絶。後三年,予職於京洛。及刺安成,至大中七年歸京,大外六甲子。所留書籍,揃壞居半。於故簡中睹與二亡友遊寺,瀝血淚交,當時造適樂事,邈不可追。複方刊整,才足續穿蠹。然十亡五六矣。次成兩卷,傳諸釋子。〈《全唐文》版本至此而止。〉東牟人段成式字柯古。 長安といえば、以下を引いてきたことを想いだした。 → 「壺と貝」 各録禪師佳語: 蘭若和尚雲:“家家門有長安道。”(柯古=成式) ついでに、成式の親父の時代の人である白楽天の「長安道」も眺めたが、それは楽しかった時代。 禅宗の時代に入るとこうなる。・・・ 「大道透長安」 [趙州従諗(778-897年)] 問: 有位僧人問趙州從諗禪師:「什麼是道?」 趙州説:「就是外面那條路。」 僧人説:「我問的不是這個道。」 趙州説:「那你問的是那個道?」 僧人説:「我問的是成佛之道。」 趙州回答:「這條大道一直通向長安城。」 這個故事是不是説明生活就是修行,離開生活則無所謂的「修行」? ◆◆◆大興善寺@靖恭坊東九条◆◆◆ 靖恭坊大興善寺。寺取大興兩字。坊名一字為名。新記雲。優填像。總章初為火所燒。據梁時西域優填在荊州。言隋自臺城移來此寺非也。今又有旃檀像。 開目其工頗拙。猶差謬矣。 不空三藏塔前多老松。歲早則官伐其枝。為龍骨以祈雨。蓋三藏役龍意。其樹必有靈也行香院堂後壁上。元和中。畫人梁洽畫雙松。稍脱俗格。曼殊堂工塑極精妙。外壁有泥金幀。不空自西域賫來者。 旃檀像堂中。有時非時經。界朱寫之。盛以漆龕。僧雲。隋朝舊物。 寺後先有曲池。不空臨終時。忽然涸竭。至惟ェ禪師止住。因潦通泉。白蓮藻自生。今復成陸矣。 東廊之南素和尚院。庭有青桐四株。素之手植。元和中卿相多遊此院。桐至夏有汗。汚人衣如輠。脂不可浣。 左顧蛤像。舊傳雲。隋帝嗜蛤。所食必兼蛤味。數逾數千萬矣。忽有一蛤。 推撃如舊。帝異之置諸幾上。一夜有光。及明肉自脱。中有一佛二菩薩像。帝悲悔誓不食蛤。非陳宣帝。於闐玉像。高一尺七寸闊寸余。一佛四菩薩。一飛仙一−玉成。截肪無玷。膩彩若滴。 天王閣。長慶中造。本在春明門内。與南内連墻。其形大為天下之聞。太和二年敕移就此寺。折時腹中。得布五百端漆數十筒。今部落鬼神形像墮壞。唯天王不損。 ◆◆◆大安國寺@長楽坊東一条◆◆◆ 樂坊安國寺紅樓。睿宗在藩時舞榭。 東禪院。亦曰木塔院。院門北西廊五壁。呉道玄弟子釋思道畫釋梵八部。不施彩色,尚有典刑。 ◆◆◆光明寺@閑明坊東十一条◆◆◆ 光明寺中鬼子母。及文惠太子塑像。舉止態度如生。工名李岫。 山庭院。古木崇阜。幽若山谷。當時輦土營之上座璘公院。有穗柏一株。衢柯偃覆。下坐十余人。 ◆◆◆趙景公寺@常楽坊東六条/弘善寺◆◆◆ 常樂坊趙景公寺隋開皇三年置。本曰弘善寺。十八年改焉。南中三門裏東壁上。呉道玄白畫地獄變。筆力勁怒。變状陰怪。睹之不覺毛戴。呉畫中得意處。 三階院西廊下。範長壽畫西方變及十六對事寶池。池尤妙絶。諦視之。覺水入深。壁院門上。白畫樹石。頗似閻立コ。予攜立コ行天詞粉本。驗之無異。 西中三門裏門南。呉生畫龍。及刷天王須。筆跡如鐵。有執爐天女。竊眸欲語。華嚴院中−石盧舍立像高六尺。古樣精巧。 塔下有舍利三鬥四升。移塔之時。僧守行建道場出舍利。俾士庶觀之。唄贊未畢。滿地現舍利。士女不敢踐之。悉出寺外。守公乃造小泥塔及木塔。近十萬枚葬之。今尚有數萬存焉。 寺有小銀象六百余躯。金佛一躯長數尺。大銀象高六尺余。古樣精巧。又有−−七寶字多心經小屏風。盛以寶函。上有雜色珠及白珠。駢甃亂目。祿山亂。 官人藏於此寺。屏風十五牒三十行。經後雲。發心主司馬恒存。願成主上柱國索伏寶息。上柱國真コ。為法界衆生造黄金牒。善繼疑外國物。 遊目記所説刺柏。太和中伐為殿材。 ◆◆◆寶應寺@道政坊東五条◆◆◆ 道政坊寶應寺韓幹。藍田人。少時常為貫酒家送酒。王右丞兄弟未遇。毎一貫酒漫遊。幹常徵債於王家。戲畫地為人馬。右丞精思丹青。奇其意趣乃成。與錢二萬。令學畫十余年。今寺中釋梵天女。悉齊公妓小小等寫真也。寺有韓幹畫下生幀。彌勒衣紫袈裟。右邊仰面菩薩及二獅子。猶入神。 西北角院内。有懷素書顏魯公序。張渭侍郎錢起郎中贊。 ◆◆◆菩提寺@平康坊東五条◆◆◆ 平康坊菩薩寺。食堂東壁上。呉道玄畫智度論色偈變。偈是呉自題。筆跡遒勁。如磔鬼神毛發。次堵畫禮骨仙人。天衣飛揚。滿壁風動。 佛殿内槽後壁面。呉道玄畫消災經事。樹石古嶮。元和中上欲令移之。慮其摧壞。乃下詔。擇畫手寫進。 佛殿内槽東壁。維摩變。舍利佛角而轉膝。元和末。俗講僧文淑裝之。筆跡盡矣。 寺之制度鐘樓在東。唯此寺縁李右座林甫宅在東。故建鐘樓於西。寺内有郭令玳瑁鞭。及郭令王夫人七寶帳。寺主元竟多識釋門。故事雲。李右座毎至生日。常轉請此寺僧。就宅設齋。有僧乙嘗嘆佛。施鞍一具。賣之材直七萬。又僧廣有聲名。口經數年。次當嘆佛。因極視右座功コ。冀獲厚襯。齋畢簾下出彩篚香羅帕籍一物。如朽釘長數寸。僧歸失望慚惋。數日且意。大臣不容欺己。遂攜至西市。示於^−−胡。−−胡見之驚曰。上人安得此物。必貨此不違價。僧試求百千。胡人大笑曰。未也。更極意言之。加至五百千。胡人曰。此直一千萬。遂與之。僧訪其名。曰此寶骨也。 又寺先有僧。不言姓名。常負束−−。坐臥於寺兩廊下。不肯住院。經數年。寺綱維或勸其住房。曰爾厭我耶。其夕遂以束−−焚身。至明唯灰燼耳。無血膋之臭。衆方知異人。遂塑灰為像。今在佛殿上。世號束草師。 ◆◆◆光宅寺@光宅坊東一条◆◆◆ 光宅坊光宅寺。普賢堂本天後梳洗堂。蒲萄垂實則幸此堂。今堂中尉遲畫頗有奇處。四壁畫像及脱皮白骨。匠意極險。又變形三魔女。身若出壁。又佛圓光均彩相錯亂目成講。東壁佛座前錦如斷古標。西壁逼之摽摽然。 --- 光宅坊光宅寺,本官蒲萄園中禪師影堂,師號惠中,肅宗上元二年征至京師,初居此寺。征詔雲:“杖錫而來,京師非遠。齋心已久,副朕虚懷。”建中中,有僧竭造曼殊堂,將版基於水際,慮傷生命,乃建三月道場,祝一足至多足、無足令他去。及掘地至泉,不遇蟲蟻。又以復素過水,有蟲投一井水中,號護生井,至今涸。又鑄銅蟾為息煙燈,天下傳之。今曼殊院嘗轉經,毎賜香。寶臺甚顯,登之,四極眼界。其上層窗下尉遲畫,下層窗下呉道玄畫,皆非其得意也。丞相韋處厚,自居内廷至相位,毎歸輒至此塔焚香瞻禮。普賢堂,本天後梳洗堂,葡萄垂實,則幸此堂。今堂中尉遲畫頗有奇處,四壁畫像及?皮白骨,匠意極險。又變形三魔女,身若出壁。又佛圓光,均彩相錯亂目。成講東壁佛座前錦如斷古標。又左右梵僧及諸蕃往奇,然不及西壁,西壁逼之ВВ然。 ◆◆◆浄域寺@宣揚坊東六条◆◆◆ 宣陽坊靜域寺。本太穆皇後宅。寺僧雲。三階院門外。是神堯皇帝射孔雀處。上蟠蛇汗煙可懼。東廊樹石嶮怪高僧亦怪。 ◆◆◆崇済寺@昭国坊東十条◆◆◆ 招國坊崇濟寺。寺後有天後織成蛟龍披襖子及繍衣六事。東廓從南第二院。有宣律師制袈裟堂曼殊堂。有松數株甚奇。 ◆◆◆資聖寺@崇仁坊東四条◆◆◆ 崇聖坊資聖寺。淨土院門外。相傳呉生一夕秉燭醉畫。就中戟手視之惡駭。 院門裏盧楞伽常學呉勢。呉亦授以手訣。乃畫總持三門寺方半。呉大賞之。謂人曰。楞伽不得心訣。用思太苦其能久乎。畫畢而卒。 ◆◆◆大慈恩寺(隋代:無漏寺)@進昌坊+晋昌坊東十一条◆◆◆ 慈恩寺。寺不淨覺故伽藍因而營建焉。凡十余院。總一千八百九十七間。敕度三百僧。初三藏自西域回。詔太常卿江夏王道宗設九部樂。迎經像入寺。彩車凡千余輛。上禦安福門觀之。太宗常賜三藏衲約直百余金。其工無針綖之跡。 寺中柿樹白牡丹。是法力上人手植。 ◆◆◆奉慈寺@宣揚坊東六条◆◆◆ 宣陽坊奉慈寺,開元中,虢國夫人宅。安祿山偽署百官,以田乾真為京兆尹,取此宅為府,後為郭曖駙馬宅。今上即位之初,太皇太後為升平公主追福,奏置奉慈寺,賜錢二十萬,繍幀三車,抽左街十寺僧四十人居之。今有僧惟則,以七寶木摹阿育王舍利塔,自明州負來。寺成後二年,司農少卿楊敬之小女,年十三,以六韻詩題此寺,自稱關西孔子二十七代孫,字コ鄰。警句雲:“日月金輪動,ヤ檀碧樹秋。塔分鴻雁翅,鐘掛鳳皇樓。”事因見,敕賜衣。 ◆◆◆保壽寺@翊善坊東一条◆◆◆ 翊善坊保壽寺,本高力士宅。天寶九載,舍為寺。初,鑄鐘成,力士設齋慶之,舉朝畢至,一撃百千,有規其意,連撃二十杵。經藏閣規構危巧,二塔火珠受十余斛。河陽從事李涿,性好奇古,與僧智搗P,嘗倶至此寺,觀庫中舊物。忽於破甕中得物如被,幅裂汚坌,觸而塵起。涿徐視之,乃畫也。因以州縣圖三及縑三十獲之,令家人裝治,大十余幅。訪於常侍柳公權,方知張萱所畫《石橋圖》也。玄宗賜高,因留寺中,後為鬻畫人宗牧言於左軍,尋有小使領軍卒數十人至宅,宣敕取之,即日進入。先帝好古,見之大ス,命張於雲韶院。寺有先天菩薩幀,本起成都妙積寺。開元初,有尼魏八師者,常念大悲咒。雙流縣百姓劉乙,名意兒,年十一,自欲事魏尼,尼遣之不去。常於奧室立禪,嘗白魏雲:“先天菩薩見身此地。”遂篩灰於庭,一夕有巨跡數尺,輪理成就。因謁畫工,隨意設色,悉不如意。有僧楊法成,自言能畫,意兒常合掌仰祝,然後指授之。以近十稔,工方畢。後塑先天菩薩凡二百四十二首,首如塔勢,分臂如意蔓。其榜子有一百四十二日鳥樹,一鳳四翅,水肚樹,所題深怪,不可詳悉。畫樣凡十五卷。柳七師者,崔寧之甥,分三卷,往上都流行。時魏奉古為長史,進之。後因四月八日,賜高力士。今成都者,是其次本。 ◆◆◆招福寺@崇義坊東六条◆◆◆ 崇義坊招福寺,本曰正覺,國初毀之,以其地立第賜諸王,睿宗在藩居之,乾封二年,移長寧公主錦堂於此,重建此寺。寺内舊有池,下永樂東街數方土填之。今地底下樹根多露。長安二年,内出等身金銅像一鋪,並九部樂。南北兩門額,上與岐、薛二王親送至寺,彩乘象輿,羽衛四合,街中余香,數日不歇。景龍二年,又賜真容坐像,詔寺中別建聖容院,是玄宗在春宮真容也。先天二年,敕出内庫錢二千萬,巧匠一千人,重修之。睿宗聖容院,門外鬼神數壁,自内移來,畫跡甚異。鬼所執野雞,似覺毛起。庫院鬼子母,貞元中李真畫,往往得長史規矩,把鏡者猶工。寺西南隅僧伽像,從來有靈,至今百姓上幡糸散不絶。先寺奴朝來者,常續明塗地,數十年不懈。李某為尹時,有賊引朝來,吏將收捕。奴不勝其冤,乃上鐘樓遙啓僧伽而碎身焉。恍惚間,見異僧以如意撃曰:“無苦,自將治也。”奴覺。奴跳下數尺地,一毛不損。囚聞之,悔懊自服,奴竟無事。 ◆◆◆永寿寺@永安坊西十条◆◆◆ 永安坊永壽寺,三門東,呉道子畫,似不得意。佛殿名會仙,本是内中梳洗殿。貞元中,有證智禪師往往著靈驗,或時在張櫝蘭若中治田,及夜歸寺,若在金山界,相去七百裏。 ◆◆◆楚国寺@進昌坊+晋昌坊東十一条◆◆◆ 楚國寺,寺無い有楚哀王等身金銅像,哀王繍襖半袖猶在。長慶中,賜織成雙鳳夾黄襖子,鎮在寺。中門内有放生池。太和中,賜白氈黄胯衫。寺墻西,朱−宅。 ─・─・─ 唐朝長安の寺院 ─・─・─ ◆が成式の巡礼対象寺院 【円仁】は入唐僧旧跡:慈覚大師円仁[794-864] 廃仏毀釈状況を「入唐求法巡礼行記」で詳述 <宮城南門外/承天門> 東宮仆寺 率更寺 光祿寺 <東街> ◆光宅寺@光宅坊東一条◆ ◆保壽寺@翊善坊東一条◆ ◆大安国寺@長楽坊東一条◆ 【円仁】元簡から悉曇学 高延福寺@来庭坊東二条 興唐寺@大寧坊東二条・・・華麗な伽藍 神秀弟子普寂住居 清禅寺@興寧坊東二条・・・法蔵(「般若波羅蜜多心経略疏」) 荷恩寺@永興坊東三条 宝刹寺@崇仁坊東四条 ◆資聖寺@崇仁坊東四条◆ 【円仁】滞在 勝業寺@勝業坊東四条 禅林寺@興慶坊東四条・・・万年県県寺 ◆菩提寺@平康坊東五条◆ ◆寶應寺@道政坊東五条 −福寺@開化坊東六条 ◆招福寺@崇義坊東六条◆ ◆浄域寺@宣揚坊東六条◆ ◆奉慈寺@宣揚坊東六条◆ ◆趙景公寺@常楽坊東六条◆ 雲花寺@常楽坊東六条 大薦福寺(大献福寺)@安仁坊東七条・・・華厳宗拠点 法蔵 "小雁塔" 【円仁】 元法寺(玄法寺)@安邑坊東七条 【円仁】 法雲寺@宣平坊東八条 青龍寺(隋代:霊感寺)@新昌坊東八条 【円仁】灌頂道場 義真阿闍梨より胎蔵昆慮遮那経大法+蘇悉地大法授法 【空海】 ◆大興善寺@靖善坊東九条◆・・・善無畏,金剛智滞在 不空住居 密教中心寺 【円仁】翻経院 元政阿闍梨より金剛界大法授法 栄政寺@靖安坊東九条 龍華寺@昇道坊東九条 ◆崇済寺@昭国坊東十条◆ ◆光明寺@閑明坊東十一条◆・・・善導旧跡 ◆大慈恩寺(隋代:無漏寺)@進昌坊+晋昌坊東十一条◆・・・玄奘,善導旧跡 "大雁塔" 【円仁】法全阿闍梨より胎蔵界大法授法 ◆楚国寺@進昌坊+晋昌坊東十一条◆ 普耀寺@青龍坊東十二条 日厳寺@青龍坊東十二条 建福寺@曲池坊東十三条 静覚寺@曲池坊東十三条 <西街> 弘福寺(興福寺)@修徳坊西一条・・・玄奘訳経所旧跡 【円仁】 福林寺@安定坊西一条 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