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■■■ 「酉陽雑俎」の面白さ 2016.4.7 ■■■

人間心理

現代だと迷信とされる行動であっても、人間心理の本質をついているものもある。言うまでもないが、現代人もそういう観点では迷信だらけで、唐代と五十歩百歩なのを忘れてはならないだろう。

そんなことを考えさせてくれるお話から。
【測盗】卷8 支動
予幼時,嘗見説郎巾,謂狼之筋也。武宗四年,官市郎巾。予夜會客,悉不知郎巾何物,亦有疑是狼筋者。坐老僧泰賢雲:“帥段k宅在昭國坊,嘗失銀器十余事。貧道時為沙彌,毎隨師出入段公宅,段因令貧道以錢一千詣西市賈胡求郎巾。出至修竹南街金吾鋪,偶問官健朱秀,秀答曰:‘甚易得,但人不識耳。’遂於古培摘出三枚,如巨蟲,兩頭光,帶黄色。祐得,即令集奴婢環庭炙之。蟲慄蠕動,有一女奴臉唇動,詰之,果竊器而欲逃者。”
狼の筋が売られていたようだ。それを焼くと盗人を見つけることができるということで。
実際、やってみると、顔と唇が動いたので、奴婢のなかから犯人を挙げることができたという。
嘘発見器のようなもので、人間心理をついたもの。しかし、それが通用しないタイプも例外的に存在する。
その辺りは、成式先生はどのようなお考えだったか尋ねてみたい気がする。

ただ、心理的に追い詰められるといっても、現実に危険な目にあっている場合も同じようなものかはナントモ。ジェットコースターが楽しい人もいれば、本当に足が震えて動けなくなってしまう人もいる訳で。
そんな話が選ばれている。
雲臺】卷9 盜侠
魏明帝起雲臺,峻峙數十丈,即韋誕白首處。有人鈴下能著屐登縁,不異踐地。明帝怪而殺之,腋下有兩肉翅,長數寸。
登場人物の、韋誕[179-251年]は、草聖と呼ばれ、魏王朝の宝器の銘題を総て書いたと言われている。その程度の書ならよいのだが。
重量バランス設計だけで高く聳えさせた揺れる構造の樓上の額に題字を書くために高所に登らされたのである。余りの恐怖で、下りてきた時には頭髪真っ白。籠に入れられて吊るされたのだろうか。コリャ愉快というお方ではなかったようで、書家になるなと子供に言い含めたとか。ソリャ違うだろう。
[出典] 陵雲臺樓觀精巧,先稱平衆木輕重,然後造構,乃無錙銖相負掲。臺雖高峻,常隨風搖動,而終無傾倒之理。魏明帝登臺,懼其勢危,別以大材扶持之,樓即壞。論者謂輕重力偏故也。
韋仲將能書。魏明帝起殿,欲安榜,使仲將登梯題之。既下,頭鬢皓然,因敕兒孫:「勿復學書。」  [劉義慶:「世説新語」巧藝第二十一]
同注引洛陽宮殿簿:「陵雲臺上壁方十三丈,高九尺;樓方四丈,高五丈;棟去地十三丈五尺七寸五分也。」

もっとも、このお話の肝は、そこではなく、猿の如く登れる兵士がいたが、羽類人とされ、帝に殺されたという点。

ハンググライダーで飛んだら、妖怪として人々に血祭りにあげられた社会だから、[→]たったそれだけのことでも、異端は殺されるという意味ではないようだ。

それがわかるのが泥棒篇。
上記冒頭も盗人話だが、あちらは続動物篇。太腿の筋肉を取るために、狼狩りが大々的におこなわれているということ。仏教徒の成式は気分悪し話題だったと思われる。

篇自体は「盜侠」なのだが、ドロボウはでてこないお話。

【飛天術】卷9 盜侠
或言刺客,飛天夜叉術也。
韓晉公在浙西,時瓦官寺因商人無遮齋,衆中有一年少請弄閣,乃投蓋而上,單練𩭪履膜皮,猿掛鳥,捷若神鬼。復建水於結脊下,先溜至檐,空一足,欹身承其溜焉,睹者無不毛戴。

飛天の術を駆使するのはもっぱら刺客。突然の一言。
暗殺を防ぐには、こうした特殊な才能を持つ者を消す必要があろう。忍者組織メンバーは能力をひけらかすことはご法度だし、そもそも非公然組織。その要件を備えていそうな人間が公然部隊の兵士であってもまずい。鳶職や軽業師ではないのだから。
猿のようにぶる下がって、鳥のように移動できる軽業師はどこにでもいるものだと思うが、確かに並外れた能力を見せられると、エンタテインメント感が吹き飛ぶかも知れない。なにせ、高所で甕を傾け、一気に降りて、そこから落ち始めた水を下で受けるという曲芸が披露されたというのだから。
これを見れば、"寒毛竪立"にならない人などいまい、と書くところを見ると、成式先生、高所恐怖症かも。

シュールなのは、人間心理が泣き声に出るというお話。
【哭者】続集巻4 貶誤
相傳雲,韓晉公滉在潤州,夜與從事登萬樓。方酣,置杯不説,語左右曰:“汝聽婦人哭乎?當近何所?”對:“在某街。”詰朝,命吏捕哭者訊之,信宿獄不具。吏懼罪,守於屍側。忽有大青蠅集其首,因發髻驗之,果婦私於鄰,醉其夫而釘殺之,吏以為神。吏問晉公,晉公雲:“吾察其哭聲疾而不悼,若強而懼者。”王充《論衡》雲:“鄭子産晨出,聞婦人之哭,拊仆之手而聽。有間,使吏執而問之,即手殺其夫。異日,其仆問曰:‘夫子何以知之?’子産曰:‘凡人於其所親愛,知病而憂,臨死而懼,已死而哀。今哭已死而懼,知其奸也。’
夫の死を悲しんで慟哭。しかし、聴く人が聴く人には、何かを恐れながらの声ではとなる、ト。
これは、精査の要有りと乗りだし、遺体見分開始。すると、青蝿が頭にたかる。
そこを調べると、なんと、頭に釘が打ちこんであった、ト。捜査の結論によれば、不義密通の結果だそうな。
マ、そんなこともある社会だから、"哭き女"という悲嘆にくれる気持ちを代哭き表現するビジネスが繁盛するのだ。その泣きに合わせて、家族・親族も"盛大に"哭かねばならぬのが約束事。それに反する輩は、やましいところがあると見なされる訳である。
儒教社会は常に粛清に用心しないと、身がもたない。

朝廷だと、食べ方ひとつでも気を遣う必要がある。帝が見ており、気分を損ねていないか常にその心理を読んでいないと、どうなるかわかったものではないからだ。
【餅拭手】続集巻4 貶誤
相傳雲,コ宗幸東宮,太子親割羊脾,水澤手,因以餅潔之。太子覺上色動,乃徐卷而食。司空贊皇公著《次柳氏舊聞》又雲是肅宗。劉《傳記》雲:“太宗使宇文士及割肉,以餅拭手。上目之,士及佯不寤,徐卷而啖。”
手が汚れるような羊の内臓料理が供された。その手を、餅でふいたところ、帝の顔色に変化が。
はてさてどうしたものか、即座に判断し、間違えたらアウト。緊張の一瞬。
そこでギョッとしたら駄目であり、慌てず騒がず、何事もなかったの如くにが鉄則。この場合、その汚れがついた餅を丸めてパクついたのである。大正解。
と言うか、登場人物が異なる色々なバージョンがあるヨと成式が指摘しているところを見ると、これは帝が時々行うテストに対処するための「傾向と対策」の一つということのようだ。
普段は贅沢三昧なのに、餅を手拭きにして捨てたりするのを咎めるというのもナンダカネではあるが。

良く言えば、知的な上流社会の一断面となるが、それが"知的"であるとは限らないというのが成式先生の見方。

そんな感覚がモロでているのが、“嘲謔”的「綽名」話。朝廷では結構流行っていたようである。おそらく、帝が好んだのだろう。
【綽名】続集巻4 貶誤
世説曹著輕薄才,長於題目人。常目一達官為熱𨫼,其實舊語也。《朝野僉載》雲:“魏光乘好題目人。姚元之長大行急,謂之趁蛇鸛鵲。侍禦史王旭短而K醜,謂之煙梵蛇。楊仲嗣躁率,謂之熱𨫼。”
 𨫼=鍋 =猿
成式がわざわざ取り上げたということは、魏光乘は名人ということか。あるいは、度がすぎてとばされてザマを見ろということかも知れぬが。
唐兵部尚書姚元崇,長大行急。魏光乘目為蛇鸛鵲。
目舍人楊伸嗣為熱𨫼
又有殿中侍御史短而醜K,目為煙熏地朮。
出《朝野僉載》 [太平広記(256)嘲誚3]魏光乘

(尚、上記には、"舍人呂延嗣長大少髮,目為日本國使人。"との一文もあるが小生にはピンとこない。)
それよりは、「綽名」をつけるなら、オリジナリティが不可欠との言葉が光る。皆で群れて揶揄することが嬉しい輩は最低ということ。曹著は全唐詩に1首あり、788年進士だが、すでに使われている「熱𨫼」をママで転用するなど、丸暗記屋がすることとご批判。
仏教徒はそれなりに使っていた言葉だったからでもあろう。
越州石佛寺顯忠祖印禪師。僧問。如何是不動尊。師曰。熱𨫼。曰如何是千百億化身。 [大正新脩大藏經 第五十一冊 續傳燈録]
ただ、残念ながら、浅学の身には、意味がよくわからない。茹で猿など聞いたことがないし。
「熱鍋上的蟻」とか"Cat on a hot tin roof"(テネシー・ウィリアムズの戯曲)であれば、解説無しでもわかるのだが。
橋本龍太郎[1937-2006年]作の「熱い鉄板の上で猫踊りさせればいい。」になると、感覚的には通じるものがあるというのは、何を言いたいかが初めからわかっているから。言葉自体としては、ライデンフロスト現象とCat danceの合体だろうか。

(参考邦訳) 段成式[今村与志雄 訳]:「酉陽雑俎」東洋文庫/平凡社 1980・・・訳と註のみで、原漢文は非掲載.
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