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■■■ 「酉陽雑俎」の面白さ 2016.5.2 ■■■

小説論

固役而不恥者,抑志怪小説之書也。 [序]

怪奇譚的戯作の時代。
"恥を忍んで、頑なにその手のものを書いてみる気になったのは、怪奇譚とは「小説」そのものだから。"、と成式は語る。
   「序で垣間見える思想」

この「小説」だが、概念が今一つよくわからない。
一般には、岡本綺堂的視点では「酉陽雑爼」は、「中国怪奇小説」ジャンルとされているが、当時は怪奇以外の小説とはなんなのか気になるではないか。
そして、なんといっても、全巻を読み通して色々と考え始めると、はたしてこれは怪奇小説を狙ったものなのか疑問がフツフツと湧いてくるのである。

【岡本綺堂:「中国怪奇小説集」@青空文庫】
"遠くは六朝時代より近くは前清に至るまでの---歴代の怪奇小説、いわゆる“志怪の書”がどんなものであるか"を見せてくれる。
開会の辞→干宝:「捜神記」(六朝/東晋)→n.a. or 陶淵明:「捜神後記[「桃花源記」]」(六朝)→段成式:「酉陽雑爼」(唐)→張読:「宣室志」(唐)→ n.a.:「白猿伝」(唐),「原化記」,「朝野僉載」,「博異記」,「伝奇」,「広異記」,「幻異志」→杜光庭:「録異記」(五代/偽蜀)→・・・
尚、斉 祖冲之:「述異記」は欠く。


ただ、成式には文芸作品の歴史観があるから、そこらのヒントも忘れずにくれている。流石である。
予太和末,因弟生日,觀雜戲。
有市人
小説呼“扁鵲”作“褊鵲”,字上聲,予令座客任道升字正之。
市人言,二十年前,嘗於上都齋會設此,有一秀才甚賞某呼“扁”字與“褊”同聲,雲世人皆誤。予意其飾非,大笑之。近讀甄立言《本草音義》引曹憲雲:“扁,布典反。今歩典,非也。案扁鵲姓秦,字越人。扁縣郡屬渤海。”
 [續集卷四 貶誤]

流石、よくわかっていらっしゃる。
やがて小説は俗語体化(口語=白話)するとお見通しということ。講釈や芝居に台本は不可欠。それは日本語なら訓読可能(レ点読み下し文)だが、書き言葉(文言)ではとうてい無理というもの。
中国の代表的小説と言えば、「四大奇書」(《水滸傳》,《三國演義》,《金瓶梅》,《西遊記》)と相場が決まっているが、それらはもちろん白話。娯楽が一般大衆化し、講釈台本が読本に発展すれば、そうなるしかないのである。

しかし、文言に感興を呼ぶ仕掛けが無いという訳ではない。古代から、洗練が重ねられ、ファッショナブルな形になってきてはいる。それは、もっぱら形式(モチーフと全体構成)とそのリスム感(文字の形と音、及び意味)でしかないが。

こんなことを考えると、「酉陽雑爼」は頭抜けている作品と言えるのではなかろうか。

魯迅の愛読書だったというのもむべなるかな。

その魯迅が、成式の時代の小説をどうみていたかに触れておこう。・・・「中國小説史略」第一篇 史家對於小説之著録及論述における、「小説」の分類概念の話。

「小説」という語彙の初出は、《莊子 外物第二十六》。
夫掲竿累,趣灌,守鯢鮒,其於得大魚難矣,飾小説以干縣令,其於大達亦遠矣,是以未嘗聞任氏之風俗,其不可與經於世亦遠矣。
なかなかの言。みみっちい釣りセットで小川で雑魚相手ならわかるが、そんなもので大きな魚など狙える訳がない。小説を磨いて縣令を射止めようなど、余りに遠大な目標であり、そんなやり方で上手くいった話など聞いたこともない。
・・・と言うことで、浅薄な言論と見なされるものが小説ということのようだ。
まさか、それ以外は大説でもなかろうと思うのだが。

莊子のこの感覚は、成式もよくご存知だった訳で、序でも、そんな話をしている。しかも、比喩表現を用いて。(古書は比喩だらけなのを揶揄していると言えなくもない。)
実際に、小説がどのような扱いかは、漢 桓譚:《新論》の書きぶりがわかり易い。(原本喪失で輯本のみ。政治問題を取り上げた具申書の類で、時局論議が記載されていたようだ。)要は、些末などうでもよい作品にすぎぬということ。
若其小説家,合殘叢小語,近取譬喩,以作短書,治身理家,有可觀之辭。

書物全体のなかでの位置付けを眺めると、どういうことか見えてくる。
後漢 班固:「漢書 芸文志」@78年では<六略>分類。・・・
1.六藝略(易、書、詩、禮、樂、春秋、論語、孝經、小學)
 [合計]一百三家,三千一百二十三篇。
2.諸子略
  儒家者流・・・五十三家,八百三十六篇
  道家者流・・・三十七家,九百九十三篇
  陰陽家者流・・・二十一家,三百六十九篇
  法家者流・・・十家,二百一十七篇
  名家者流・・・七家,三十六篇
  墨家者流・・・六家,八十六篇
  縦横家者流・・・十二家,百七篇
  雑家者流・・・二十家,四百三篇
  農家者流・・・九家,百一十四篇
  小説家者流・・・十五家,千三百八十篇
 [合計]百八十九家,四千三百二十四篇
3.詩賦略(屈原賦之屬、陸賈賦之屬、孫卿(荀卿)賦之屬、雜賦、歌詩)
4.兵書略(兵權謀、兵形勢、兵陰陽、兵技巧)
5.数術略(天文、暦譜、五行、蓍龜、雜占、形法)
6.方技略(醫經、經方、房中、神仙)

小説家者流に該当する本はすべて失われているので、具体的な内容はわからぬが、書名と注記からみると、他の家者流と大同小異のように映る。イマイチ信用できぬし、どう見ても軽薄というだけか。
以下のような注記がそんな見方を物語る。
【班固 注】小説家者流,蓋出於稗官。街談巷語,道聽塗説者之所造也。孔子曰:「雖小道,必有可觀者焉,致遠恐泥,是以君子弗爲也。」然亦弗滅也。閭里小知者之所及,亦使綴而不忘。如或一言可采,此亦芻蕘狂夫之議也。
【如淳 注】街談巷説,其細碎之言也。王者欲知閭巷風俗,故立稗官使稱説之。今世亦謂偶語爲稗。
【班固 注】諸子十家,其可觀者九家而已。皆起於王道微,諸侯力政,時君世主,好惡殊方,是以九家之術出並作,各引一端,崇其所善,以此馳説,取合諸侯。

小説は、出典が定かでない巷の話を拾って集めた本にすぎないとされている訳だ。採るに足らぬ中身であると断言。話の出所は、民の噂を収集する役割の"稗官"だと言うのである。社会的上層では、相互査読的なフィルターで質が悪いものは淘汰されるが、ソースがココではそれこそデッチあげもありえようといった見方。
当然ながら、そんな位置付けであるから、小説は抹殺の憂き目にあうことに。
そんな迫害を受けているにもかかわらず、小説は逆に隆盛の時代を迎えたのである。
そもそも、くだらん書物と、いくらけなそうが、六朝の志怪小説である「列異傳」の著者と目される曹丕(曹操の長子)[187-226年]とは、魏の初代皇帝 文帝。これが事実かは、なんともいえぬが、そう考えたくもなるような姿勢の皇帝だった訳で。

さて、その小説をどう分類するかだが、3タイプありという見方がある。
跡其流別,凡有三派:其一敘述雜事,其一記録異聞,其一綴緝瑣語也。 [《四庫全書總目提要》]
雜事之屬・・・《西京雜記》,《世説新語》
異聞之屬・・・《山海經》,《穆天子傳》,《神異經》,《搜神記》,《續齊諧記》
瑣語之屬・・・《博物志》,《述異記》,《酉陽雜俎+續集
どうも、いま一歩ピンとこない。

代表的な雜俎系はこんなところだろうが、これらすべてを一緒にしても意味は薄かろうし。
段成式:《酉陽雑爼》,今存於:《太平廣記》,牛僧儒:《玄怪録》,李復言:《続玄怪録》,衛託/牛僧儒:《周秦行紀》,張讀:《宣室志》,蘇鶚:《杜陽雜編》,裴:《傳奇》

小生は、「酉陽雑爼」は単ある奇譚収集書と見ないので、これらを一括りにするのはどうかと思う。もちろん、博物学的な書でもないのである。

ある意味、新楽譜派の社会改革の意識が高い人々の小説と似たところがある。元:《鶯鶯傳》を、中国怪奇小説」ジャンルに入れたくないのと同じようなもの。誰が見ても、これは怪奇とは言い難い。問題意識に合わせてストーリーがつくられており、ほとんど、現代の一般小説と変わらないと言ってよかろう。
これと、土俗臭紛々の怪奇話集や、思想/宗教の拡宣用の比喩話と、分ける必要があろう。

と言っても、記載内容からすれば、小説家類はこう分けるしかないかも知れぬ。
志怪・・・干寶:《搜神記》,祖沖之:《述異記》,張讀:《宣室志》,段成式:《酉陽雑爼
傳奇・・・宋 秦醇:《趙飛燕外傳》,宋 樂史:《楊太真外傳》,元:《鶯鶯傳》,防:《霍小玉傳》
雜録・・・劉義慶:《世説新語》,裴:《語林》,《北夢瑣言》,宋 孫光憲:《新唐書 藝文志》
叢談・・・宋 洪邁:《容齋隨筆/宋史 藝文志》,宋 沈括:《夢溪筆談/補筆談/續筆談》,宋 李之彦《東谷所見/宋史 藝文志補》,n.a.:《道山清話/四庫全書總目提要》
辯訂・・・宋 戴埴:《鼠璞/宋史 藝文志補》,宋 庄季裕:《肋編》,李匡文:《資暇集/新唐書 藝文志》,陸長源:《辯疑志/新唐書 藝文志》
箴規・・・顏之推:《顏氏家訓》,宋 袁采:《袁氏世範》,王敏中:《勸善録》,宋 李邦獻:《省心雜言/宋史 藝文志》

魯迅に言わせれば、・・・
小説亦如詩,至唐代而一變,雖尚不離于搜奇記逸,然敘述宛轉,文辭華,與六朝之粗陳梗概者較,演進之迹甚明,而尤顯者乃在是時則始有意為小説。---傳奇者流,源蓋出於志怪,然施之藻繪,擴其波爛,故所成就乃特異,其間雖亦或託諷喩以牢愁,談禍福以寓懲勸,而大歸則究在文采與意想,與昔之傳鬼神明因果而外無他意者,甚異其趣矣。

(参考邦訳) 段成式[今村与志雄 訳]:「酉陽雑俎」東洋文庫/平凡社 1980・・・訳と註のみで、原漢文は非掲載.

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