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■■■ 「酉陽雑俎」の面白さ 2016.5.5 ■■■

廃仏仕掛け人の知

李徳裕[787-850年]は、憲帝時の宰相 李吉甫[758-814年]の子。爵位は衛國公。「会昌の廃仏」を仕掛けたとされる人物だが、成式の上司でもあったようだ。
   「会昌の廃仏棄寺」

従って、衛國公は、こうした棄佛路線がらみの話だけに登場していると考えがちだが、そうではないのである。

「續集」の博物学的な部分に[卷八支動,卷九支植上,卷十支植下]、えらく頻繁に登場するのだ。これでもかというほど。
そこには、トンデモないことをしてくれたものヨ、という気分は感じられない。師匠として登場させたのではないかと思われる調子と言ってよいだろう。

仏教や焚書対する姿勢は180度違うが、近しい気分があったことは間違いなかろう。
その気持ちはわかる。
李徳裕は名門中の名門の家の出身であり、高度な教育を受け、知のリーダーとしてのプライドがあったから。従って、教説丸暗記と作詩能力が問われる進士及第路線をとことん嫌ったのである。おそらく、博学と呼ばれることをも大いに嫌った筈で、なんでも自分の頭で熟考する習慣ができあがっていたのでは。その辺りは成式も同じだろう。
ただ、全く違うのは、矢鱈に真面目だったという点か。そこらが、腐敗し統治機構を無視している勢力との妥協なき党派闘争開始の根底にありそうな気がする。
コ裕性孤峭,明辯有風采,善為文章。雖至大位,猶不去書。其謀議援古為質,袞袞可喜。常以經綸天下自為,武宗知而能任之,言從計行,是時王室几中興。---不喜飲酒,后房無聲色娯。 [「新唐書」列傳第一百五 李コ裕]

「寺塔記」を書かずにいられなかった成式からすれば、「会昌の廃仏」の旗振り役というだけで無視することはできなかったのだろう。

どんな具合か見てみよう。

突然、子供自分の話が掲載されているのである。おそらく、直接聞いた思い出がかぶさっているのであろう。ホラ、お前も色々教えてもらったアノ人だ。周囲を注意深く観察しており、他の人が気付かない点をお見通し。しかし、それを誇るでもなく、逆に周囲の状況を考えながら発言する人だったのでは、と言いたげなお話。
衛公幼時,常於明州見一水族,有兩足,觜似,身如魚。
衛公年十一,過瞿塘,波中睹一物,状如嬰兒,有翼,翼如鸚鵡。公知其怪,即時不言。晩風大起,方説。

細かなことにも拘る人だったようである。明確なプリンシプルがあったのであろう。支えるスタッフはそれから外れる訳にいかず、妥協で片付けることができず、さぞや大変だったであろう。
そんな姿を彷彿させる例。・・・
南中毒瑁,斑點盡模糊,唯振州瑁如舶上者。嘗見衛公先白書,上作此𣫹𤲰字。
/玳瑁/タイマイといえば、宝石の扱いになる甲羅で有名。そんなこともあって、普通は玉偏の文字を使う。もちろん、生物というか、食の対象物として扱いたいならと、虫偏にしてもよいのである。
しかし、海の生物だから、田偏はありえそうにない。ところが衛公はそんな文字(𣫹𤲰)を使っていたのだ。おそらく、田偏は表記では「甲」にもなるから、甲羅ということなのだろう。成式としては、衛公なら、さもありなんと感じたに違いない。
単に、甲羅細工にするだけなのに、"王"などもっての他であり、"甲"扱いにすべしということで。それは、衛公にとっては、どうでもよい問題ではなかったのである。

成式にとっては、このパートは書くのがえらく骨だったようで、苦心の跡が散見されるので見ていこう。

最初は、鬼を警め、火を抑え、悪を避けることができる動物の話から。李朝の重視順位である、道儒佛に従っているのである。印度の象徴はもちろん蛇を喰う孔雀である。
衛公言:“鵝警鬼,鵝鵝壓火,孔雀辟惡。”

ここで、突然にして、衛公の絵画話になるのが、いかにも成式らしい。
衛公畫得峽中異蝶,翅闊四寸余,深褐色,毎翅上有二金眼。
素晴らしく美しい蝶の写生ができる人だったことの驚きを、包み隠さず記載していると言えよう。
実は、これこそ、生物観察の基本的素養。成式が"本物"として尊敬した切欠はおそらくココ。生物分類の基本は頭のなかのイメージで考えては駄目であり、生モノの写生が第一歩ということを知っていたのである。これができて、始めて、概念形成が可能になり、それによって新しいものの見方が生まれる。その辺りを踏まえての、高度に知的なお話。
理解できぬ人はそれで結構とつきはなしているとも言える。

お次は、食のタブーについての見方。
小生は、成式はグルメ志向だったと見るが、道教の食の見方にはよくわからないところが多く、不思議な考え方だと感じていたに違いない。
衛公とは、その辺りの感覚を共有していたようだ。
公又説:“道書中言鹿無魂,故可食。”
食べてかまわない生物は、道教では魂なきものと定義されるのだヨ、と衛公が教えてくれたのである。
鯉魚は龍になるから禁忌にした理屈の裏返しである。成程そうだ、となったのであろう。

動物はこんなところだが、植物は記載項目が多い。

その理由は、衛公が洛陽の別邸を植物園風な環境に仕上げていたからである。
先ずは、思い出として残っている花から。
衛公平泉莊有黄辛夷、紫丁香。
もちろん、その種としては珍しい色である。

植物について一家言ある訳で、自分なりの分類眼を持っていたのである。

衛公言:“桂花三月開,黄而不白。”大詩皆稱桂花耐日。又張曲江詩“桂花秋皎潔”,妄矣。
似ているからといって、異種と簡単に片付ける風潮には断固反対の精神。間違っていそうな分類でも、気にしない神経はどうかしていると憤慨しかねないお人だったようである。
ここらは、成式も同意では。

実際、変種についての知識も豊富だったようである。

衛公言:“滑州櫻桃十二枚長一尺。”
櫻桃だと実が付く数で違う種とわかると。そんなところまで見ているのかとビックリだったろう。

地域による植生の違いにも敏感な方で、ちょっとした変化から、それを見抜いていたのである。

衛公又言:“衡山舊無棘,彌境草木,無有傷者。曾録知江南,地本無棘,潤州倉庫或要固墻隙,植薔薇枝而已。”
植えこんでいる植物を見ると、同じ種でも棘が失せる地域があったりするというのだ。その気付きに感心したというより、植物の多様化とはそういうものかと認識を新たにさせられたに違いない。

そのような実地観察だけでなく、書物からの気付きも。
衛公言:“有蜀花鳥圖,草花有金粟、石闞、水禮、獨角將軍、藥管。石葉甚奇,根似棕葉。大凡木脈皆一脊,唯桂葉三脊。近見亦三脊。”
特に、四川辺りは変種が多いことが、図画からわかるというのである。

さらなる遠方の変種か知られていない種かわからぬが、そんな植物についても知識豊富なのだ。
衛公言:“回訖草鼓如鼓,及難,果能菜。”
回訖汗國の話らしいが、それ以上のことはわからない。江戸時代には、蒲公英/タンポポを鼓草と呼んでいたらしいが、中国語ではないようだし。

その変種とは、どんなものか、四川のわかり易い例をあげている。

衛公言:“蜀中石竹有碧花。”
石竹は撫子/ナデシコやカーネーションを指す。青いカーネーションは植物工学で初めて生まれたもんで、そんな花があるとは思えないが。別種だがナデシコ類似の草をみつけたのだろう。

石竹も好きだったのだろうが、牡丹のような華やさを早くから愛していたようだ。しかし、その大流行には疑問を感じていたようだ。
又言:“貞元中牡丹已貴。柳渾善言:
  ‘近來無奈牡丹何,數十千錢買一顆。
   今朝始得分明見,也共戎葵校幾多。’”
成式又嘗見衛公圖中有馮紹正圖,當時已畫牡丹矣。

金にあかせて、流行品を集めてどうするのだという感覚を持つ詩人と心根は同じだヨ、と。

前述したように、衛公は洛陽に広大な庭付きの別荘を持っており、そこに好みの植物を植えていたのである。
特に、芙蓉系を愛していたようだ。
衛公莊上舊有同心蒂木芙蓉。
話の流れからして、そんなお話をする意味は薄いから、おそらく、これらの花々も洛陽の人々が勝手に持ち出していることだろうという嘆息なのだろう。主人が没落すれば、それらは、一挙に霧散することになるのが、中華帝国のルールだから致し方なし。
貴重な芙蓉コレクションは二度と戻ってこないのである。焚書と同じことで、それが嬉しい人達が住む社会なのである。
重臺朱槿,似桑,南中呼為桑槿。
朱槿とは仏桑花/ブッソウゲ/Hibiscusのことで、「扶桑」と呼ばれることが多かったようだ。
今村与志雄は以下の詩ありと注に記載。芙蓉/フヨウ、木槿/ムクゲ、仏桑花/ブッソウゲはまあ同じようなもの。
  「思平泉樹石雑咏一十首 重臺芙蓉」 唐 李コ裕
  芙蓉含露時,秀色波中溢。玉女襲朱裳,重重映皓質。
  晨霞耀丹景,片片明秋日。蘭澤多衆芳,妍姿不相匹。

李コ裕は「重台芙蓉賦(並序)」の作者でもある。

この先には付け足し的なものも。一種の笑い話でもあるが、そう感じない人の方が多かろう。
衛公言:“金錢花損眼。”
衛公にとっては、金錢花は、名前からして面白くないかも。おそらく、禄でもない語源なのだろう。

「十八巻 広動植之三」の再掲も。

衛公言:“石榴甜者謂之天漿,能已乳石毒。”
おそらく、ザクロに色々な種類があることを衛公から聞いたのだ。女性用生薬として渡来したのだろうが、その後、続けざまに様々な品種がやってきたのであろう。
成式には、長安や洛陽では考えられぬような、驚くほど甘いタイプを衛公から頂戴した覚えがあるのだろう。

「十八巻 広動植之三」の俗説への追加。
衛公言:“二鬣松,與孔雀松別。”又雲:“欲松不長,以石抵其直下根,便不必千年方偃。”
間違いを断言できるのだから、植物学者に近い知識を有するとの自負があるのだろう。ソリャ、成式の師匠格になって当たり前。十八巻の俗説は以下の通り。
俗謂孔雀松,三鬣松也。松命根遇石則偃,蓋不必千年也。

しかし、衛公にも種の判別を躊躇するような樹木もあtったようだ。
異木花,衛公嘗獲異木一株,春花紫。予思木中一發花唯木蘭。
成式は、それは間違いなく木蓮の一種と見なした。この種はそれぞれの季節に咲く異種がある筈ということで。正しいかどうかは別として、何を特徴として多様化しているかこそが、それぞれの種を分ける決め手と考えていることがわかる。流石。

堅物だったようだが、客人のもてなし方には特徴があったようだ。
猴栗,李衛公一夕甘子園會客,盤中有猴栗,無味。陳堅處士雲:“虔州南有漸栗,形如素核。”
珍しいものを出してくれたが、無味だったりして。そこで、話が弾んでくれるのを愉しみにしていたのであろう。美味いものなど、金をあかせばいくらでもありうるのだが、このようなもてなしは、相当なインテリのコミュニティでないとなかなかできるものではなかろう。

童子寺竹,衛公言:“北都惟童子寺有竹一,才長數尺。相傳其寺綱維毎日報竹平安。”
北都とは、太原府@山西。ここらまで北方になると、竹は滅多に生えていないのだろう。それでも大切に育てている寺があると。
「入唐求法巡礼行記」によれば、円仁は838年、五台山を経て後、長安に向かうべく、盂蘭盆会供養の頃に太原府に入った。もちろん、そのお寺、童子寺にも宿泊したのである。高さ17丈の仏像があり、仏教の聖地でもあったと記載されている。(法相宗開祖の慈恩大師がこのお寺で唯識論を講義したとされているからだ。)
表は道教の看板を掛けざるを得ないが、小さくとも竹のように生き延びよ、と衛公が言っているようにも見える。仏教弾圧に動いた人だが、それは政治的に必要だったから、と成式は考えたのかも知れない。
おそらく、僧侶と寺を維持するために、国家財政の多くが割かれていたのであろう。

(参考邦訳) 段成式[今村与志雄 訳]:「酉陽雑俎 5」東洋文庫/平凡社 1980・・・訳と註のみで、原漢文は非掲載.

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