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■■■ 「酉陽雑俎」の面白さ 2016.4.27 ■■■

会昌の廃仏棄寺

[唐朝第15代皇帝]武宗/李→李炎[814-846年]は、宦官勢力の力を得て、840年に即位。
党争で牛僧孺に敗れ、鄭滑節度使になっていた反進士かつ対外強硬派の李徳裕を即時宰相に。藩鎮の力を押さえ、ウイグル[廻鶻]討伐で力を誇示。
そして、道士の趙帰真の支援も得て、845年には有名な"会昌"の徹底的な廃仏棄寺を行う。一部の例外を除いて、寺院はことごとく破壊されたと見てよさそう。
その翌年、武宗は金丹中毒で死亡。後継の宣宗が仏教再興に動いたがすでに遅し。

成式的な書き方だと、このようになる。・・・
武宗之元年,戎州水漲,浮木塞江。刺史趙士宗召水軍接水,約獲百余段。公署卑小,地窄不復用,因並修開元寺。後月余日,有夷人逢一人如猴,著故青衣,亦不辯何制,雲:“關將軍差來采木,今被此州接去,不知為計,要須明年卻來取。”夷人説於州人。至二年七月,天欲曙,忽暴水至。州城臨江枕山,毎大水猶去州五十余丈。其時水高百丈,水頭漂二千余人。州基地有陷深十丈處,大石如三間屋者,堆積於州基。水K而腥,至晩方落,知州官虞藏及官吏才及船投岸。旬月後,舊州寺方幹,除大石外,更無一物。惟開元寺玄宗真容閣去本處十余歩,卓立沙上,其他鐵石像,無一存者。
   [續集卷三 支諾皋下]

年号は会昌[841年〜]だが、それをわざわざ、"武宗之元年"としている。もちろん、中身は武宗の話ではない。ボ〜として読んでいれば、フンそうかネで通り過ぎてhしまう箇所である。
なにせ、四川は揚子江上流の河川合流地点近くでの大洪水発生というだけの話題なのだから。

1回目は、樹木が多数流れてきたので水軍を出して引き上げた程度でなんとかなったという。余りに量が多かったので、公署置き場は狭すぎ、お寺の修復を兼ねそちらに。
そのお寺は開元寺。玄宗の勅命で各州に設置された官寺である。もちろん国家の祭儀用。
翌年の2回目はそうはいかなかった。
水嵩が尋常ではなく、州城を直撃。2,000人以上が水に漂うという状況。州官も舟でどうやら避難できたという程。10日後、水は引いたが州城壊滅。鐵石像もすべて喪失。ただ、例外は、開元寺にあった玄宗の肖像[真容]。引き摺られて移動してはいたが、かろうじて沙上に立っていた。砂上だからそのうち倒れるのであろう。その他はなにもなし。すべての文化は消え去ってしまったのである。

この逸話のポイントは、第1回目の洪水の一月余り後、樹木を求めてやってきた人と夷人の間の会話。
[=猿]のようで、見たこともない素材でできた古くて青い色の衣を着用していた人で、「関羽将軍の差配で木を採りにきた。」と、語ったと言う。舟に乗る関羽に対抗した陸軍の于禁は、漢水氾濫で完敗。「晩節を汚す」事績を思い起こさせる仕掛けになっている。

ついでに、間接的に廃仏の動きを伝えるオモシロ話も一発かませたりして、・・・。
武宗六年,揚州海陵縣還俗僧義本且死,
托其弟言:
 “我死,必為我剃須發,衣僧衣三事。”
弟如其言。
義本經宿卻活,言見二黄衣吏追至冥司,
有若王者問曰:
 “此何州縣?”
吏言:
 “揚州海陵縣僧。”
王言:
 “奉天符沙汰僧尼,海陵無僧,因何作僧領來?”
令回還俗了領來。僧遽索俗衣衣之而卒。

    [續集卷三 支諾皋下]

還俗させられた僧が死に臨んで、弟に遺言。髭と髪を剃り、死装は僧衣にしてくれ、と。
どうした訳か一晩たったら生き帰ったそうナ。そして言うことには、・・・
官吏に冥界の官署に連れていかれ、そこの王から、どこの県から来たのか尋ねられたので、揚州海陵縣の僧侶と答えたら、「その地に僧などいないゾ。それは天の御沙汰だ。どうして僧など連れて来たのだ。」と。
還俗してから来いと命令された訳である。
生き返った僧は急遽浴衣を探し、それを着て再び往生。
思わず、ワッハッハ。

唯、笑いごとではないのではあるが。
成式がどのような気分だったかは成都での話でわかる。
成都乞兒嚴七師,幽陋凡賤,塗垢臭穢不可近。言語無度,往往應於未兆。
居西市悲田坊,常有帖衙俳兒幹滿川、白迦、葉珪、張美、張等五人為火。七師遇於途,各與十五文,勤勤若相別為贈之意。
後數日,監軍院宴滿川等為戲,以求衣糧。少師李相怒,各杖十五,遞出界。
凡四五年間,人爭施與。毎得錢帛,悉用修觀。
語人曰:“寺何足修。”方知折寺之兆也。今失所在。
  [續集卷三 支諾皋下]

カルト的独裁者の行状とはかくも酷いもの、との情感が溢れていると言えよう。

"悲田坊"とは成都城内坊里の名称ではなく、寺院の救貧施設の一般名である。懿宗の勅によって各州で同じような施策が展開されていたのである。李徳裕に代表される旧来貴族勢力が一番嫌いそうな平等思想が振りまかれていた訳だ。
應州縣病坊貧婚,多處賜米十石,或數少處,即七石、五石、三石。其病坊據元敕各有本利錢,委所在刺史録事參軍縣令糾勘,兼差有道行僧人專勾當,三年一替。如遇風雪之時,病者不能求丐,即取本坊利錢,市米為粥,均給饑乏。如疾病可救,即與市藥理療。--  [「全唐文 卷八十四 懿宗」19疾愈推恩敕]

当然ながら、一般人が近づきがたい乞食坊主そのものといった風采の僧も生まれる。収容者に合わせればそうならざるを得ないだけのこと。
しかし、インテリ僧でもあり、底辺での実情を見れば、社会の流れがどうなりそうか一番よくわかる。予言が大当たりというのもむべなるかな。

その嚴七和尚だが、子供芸人に出合うと必ず銭を与えていたという。なんとか、飢え死にしないで生きてくれという愛情からだろう。ところが、そんな芸人達が地方官の宴で戯れることで、お金を恵んでもらおうとしたところ、怒りを招いたという。杖刑の上に処払いの憂き目。
要するに、世の中、一気にそういう人の天下になってしまったのである。
(尚、道士趙帰真は846年杖刑による死罪とあいなった。)

しかし、人々は施しが無くなしたどころか、争うようにした寄進。そして、それはもっぱら道教施設の改修費用に回されたのだそうナ。
寺など修理する必要などない、と言うことで。
それは、今になって知る"折寺之兆"だったと総括している訳である。

間違えていけないのは、成式は傍観者ではないという点。
官僚は組織から離れればたちどころに生活できなくなる。帝の方針に反対すれば斬首が待ち構えている。従って、官が仕掛けた仏教の大弾圧のなかで、武宗朝廷から逃げ出す訳にはいかないのである。
それが終わったといっても、そう愉快なことではない。次の宣宗は即座に李徳裕を左遷したようだが、成式の上司のことがあったのは間違いないのである。
【李太尉與段少常書】唐李太尉コ裕左降至朱崖著四十九論叙平生所志嘗遺段少常成式書曰自到崖州幸且頑健居人多養往往飛入官舍今且作祝翁爾謹状吉甫相典忠州泝流之任行次歸地名雲居臺在江中掌武誕於此處小名臺郎以其地而命名也  [唐 孫光憲:「北夢瑣言 巻八」@欽定四庫全書]

つまり、武宗の断行を支えて官僚の旗頭たる李太尉コ裕が、一体なにを考えて廃仏棄寺に踏み切ったかもすべてお見通しの筈なのだ。その上で書いていることをお忘れなきよう。

成式の著作の再収と思われる「寺塔記」の"序"には直截的な言葉が記載されている。・・・
武宗癸亥三年夏,予與張君希複善繼同官秘書,鄭君符夢複連職仙署。
會暇日,遊大興善寺。因問《兩京新記》及《遊目記》,多所遺略。乃約一旬尋兩街寺,以街東興善為首。二記所不具,則別録之。
遊及慈恩,初知官將並詩,僧衆草草,
及泛問一二上人,及記塔下畫跡,遊於此遂絶。後三年,予職於京洛。及刺安成,至大中七年歸京,大外六甲子。所留書籍,揃壞居半。
於故簡中睹與二亡友遊寺,瀝血交,當時造適樂事,不可追。複方刊整,才足續穿蠹。然十亡五六矣。次成兩卷,傳諸釋子。〈《全唐文》版本至此而止。〉東牟人段成式字柯古。
 [續集卷五 寺塔記上]

成式、長安で友とお寺拝観をしたのが廃仏棄寺のほんの少し前の会昌3年、癸亥のこと。すでに、僧侶はソワソワ状態だったのである。
そして、その後、都を離れて戻ったのが853年、癸酉。そして、予想通りの惨状。
当時一緒に回った旧友も逝ってしまい、当時のメモを眺めていると血涙下るのである。
だからこそ、これは書籍化せねばと。
   「廃墟寺巡礼」
もちろん、それは仏教徒に伝えるがためである。

尚、柯古という名前だが、「韋斌傳」[→]では"屋敷内で大きく育っている槐樹"から来ていそうと睨んだが、あるいはここら辺りからかモ。
 「伐柯」  [詩経 國風 風]
伐柯如何?匪斧不克。取妻如何?匪媒不得。
伐柯伐柯,其則不遠。我覯之子?豆有踐。


(参考邦訳) 段成式[今村与志雄 訳]:「酉陽雑俎 4,5」東洋文庫/平凡社 1980・・・訳と註のみで、原漢文は非掲載.
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