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■■■ 「酉陽雑俎」の面白さ 2016.5.11 ■■■

神話

安禄山の乱勃発で玄宗は成都に逃避。朔方節度使の杜鴻漸は、皇太子たる李亨を靈武に迎えた。そして、城南楼で即位。この肅宗[711-762年]の逸話が収録されている。
たいした内容ではないとみなしたが、[→「李王朝前期略史」]、それは李朝史の観点から。

しかしながら、中国の神話について記述しており、その点に注目すれば、なかなか鋭い指摘と言えよう。・・・
肅宗將至靈武一驛,黄昏,
有婦人長大,攜雙鯉咤於營門曰:
 “皇帝何在?”
衆謂風狂,遽白上潛視舉止。婦人言已,止大樹下。
軍人有逼視,見其臂上有鱗。俄天K,失所在。
及上即位,歸京闕,州刺史王奇光奏女墳雲: “天寶十三載,大雨,晦冥忽
  今月一日夜,
  河上有人覺風雷聲,
  曉見其墳湧出,
  上生雙柳樹,高丈余,
  下有巨石。”
兼畫圖進。
上初克復,使祝史就其所祭之。至是而見,衆疑向婦人其神也。
 [卷一 忠誌]
靈州靈武郡だが、現在の寧夏回族自治区(北側は内蒙古自治区)の北方に位置する銀川市内の靈武市のこと。長安がある陝西の西部である。(秦のテリトリー)唐代は黄河の水を利用した灌漑農業地帯だったらしい。
肅宗がその一駅に到着した黄昏時に、背の高い婦人が二匹の鯉を携えて営門に現れたという。
 「皇帝は何処に居る?」と。
衆人は風狂と見て、監視していたが、発言を終えると大樹下で立ち止まった。そこで、兵士がよくよく視ると、腕に鱗があることがわかった。
俄かに、空が黒くなってきて、その人は何処へかと消えてしまった。

その後、即位した粛宗が長安へ戻ると、州の刺史である王奇光が女の墳墓について上奏してきた。
 「754年のこと。
  大雨が降り。真っ暗に。
  今月1日夜、黄河の辺で風雷の音あり。
  明け方、墳墓が隆起。
  上に、柳の木が2本生えてきて一丈余りに達した。
  下には巨石。」と。
図絵でも示して上申。
帝、意味を理解し、祭祀挙行。
衆人は、あの婦人とは神だったのかと。


2匹の鯉とは、官制に定められた魚符を暗示している。("魚符"とは、木製または銅製の魚に官員の姓名役職等の文字を刻み、真2つに割った符。官人が宮中入門時に提示を義務付けられている身分証明書。)

言うまでもなく、鱗の皮膚とは、人頭蛇身の女の姿を意味する。

ここでは、女の墳墓が存在する地は州とされる。現在の河南省霊宝市。(様々な説がありそうだが、観光的には、女陵は山西省臨汾市洪洞縣趙城鎮侯村とされている。)

が蛇身なのは、脱皮変身信仰を示す。死も一種の変身であるから、道教の不老不死信仰の原点はココだろう。

石とは、大地開裂時の大地の方を指すと言えそう。女は創造神であることを示唆していると言えよう。

要するに、石崇拝変身信仰の母系制時代の地母神から天子の指名を受けたことこそが、天子正当性の証とされていると、成式は語っているのである。(女は黄土の人形を作ったが、それが"高貴な"ヒト。それ以外のヒトは、縄に泥をつけ滴り落ちてできた。)

このことは、中原発祥の創造神話は、女だと、成式が指摘しているようなもの。
つまり、他の神話は由来が異なるのである。

(参考邦訳) 段成式[今村与志雄 訳]:「酉陽雑俎 1」東洋文庫/平凡社 1980・・・訳と註のみで、原漢文は非掲載.

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