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■■■ 「酉陽雑俎」の面白さ 2016.4.13 ■■■

李王朝前期略史

「酉陽雑俎」の巻一は「忠志」篇から始まる。よくわからぬ題である。訳は"君王事績"となっており、内容はその通り。
そう思って、読み始めてしまうとつまらぬ箇所である。
本文冒頭からして、唐王朝の初代皇帝は若い時から武勇に優れていたとのお話。唐王室史に興味があるお方は別だが、フフ〜ンで終わる。
その後も、突拍子もない話は無いし、いかにもありそうな伝説や逸話の退屈な話が続く。

著者は知的なエリートであり、そんな下らぬ事績をバラバラ並べるとしてら、そこにはそれなりの理由があってしかるべき。

そう思って読めば、すぐに意図が見えてくる。
各皇帝毎に、源泉した事績を選んでいるのである。それは、一般的に有名だとか、歴史上の結節点になるようなものではなく、どれもたいしたこともない話。しかし、なにげないような逸話だからこそ、その時代の統治風土を表現できるのである。人物評価に見える記述だが、全体を通して眺めると、そういうことではないことがわかってくる。
いわば、李朝前半の通史、超簡略版と言えよう。そう考えると、なかなかよくできている。マ、成式流の歴史観の吐露と言えなくもない。

但し、素人は読む前に、先ず、李朝の皇帝系譜図を頭に入れておく必要があろう。その上で「忠志」篇を読むとわかってくる。・・・

[隋朝初代皇帝]文帝/楊堅[569-618年<暗殺?>]
┌┴→(長男)楊勇
(次男)
(1)[隋朝第2代皇帝]煬帝/楊広[569-618年<殺害by近衛兵>]
(長男)
楊昭[584-606年]
┌┴→(次男)[名目的第4代][604-619年<殺害by王世充>]
(長男)
(1')[隋朝第3代皇帝]恭帝/楊侑[605-619年<殺害by李世民>]

"禅譲"
(臣下)
(2)[唐朝初代皇帝]高祖/李淵[566-635年]
│   └太穆竇(太宗母)[569-613年]
┌┴→(長男)李建成[589-626年<殺害by李世民>],
│     (四男)李元吉<殺害by李世民>
(次男)
(3)[唐朝第2代皇帝]太宗/李世民[598-649年]
│ └---(妃)---┐(↓高宗皇后)
┌┴→(長男)
(九男)
(4)[唐朝第3代皇帝]高宗/李治[628-683年]
│ :
(5)[武周朝皇帝](高宗皇后)則天/武[623-705年]
│       └--(6)(従者)武攸緒[655-723年]
├─→(男)李弘,李賢
(八男)
├→(7)[唐朝第5/8代皇帝]睿宗/李旦[662-716年]
(七男)
(8)[唐朝第4/6代皇帝]中宗/李顕[656-710年<毒殺by韋皇后>]

(9)[唐朝第7代皇帝]殤帝/李重茂[695-713年]

(10)[唐朝第9代皇帝]玄宗/李隆基[685-762年]

(11)"安史之亂":[大燕国皇帝]安禄山[705-757年<殺害by次子>]

(12)[唐朝第10代皇帝]粛宗/李→嗣昇→浚→紹→亨[711-762年]

(13)[唐朝第11代皇帝]代宗/李俶→豫[726-779年]

(14)[唐朝第12代皇帝]徳宗/李[742-805年]

順宗〜憲宗〜穆宗〜敬宗〜文宗

武宗/李→炎[814-846年]

宣宗〜懿宗〜僖宗〜昭宗〜哀帝

と言うことで、見ていこう。

■李朝への移行■
(1)隋朝の実質的最期の皇帝「煬帝/楊広」は戦略的なロジスティクス基盤と防衛施設を作り上げて広大な帝国を樹立したが、結局のところ首府から逃亡し近衛兵に殺害される。これが、楊朝から、李朝への移行を決定づけたとも言える。
それを語るかのような、太宗の言葉あり。(後述の、太宗の箇所でも記載。)・・・
"縁起じゃ無いよ、お馬鹿さん。"
支配の安定性実現は、組織内の「賢」要員の有無で決まるのだゼ。
我嘗笑【隋帝】好祥瑞。瑞在得賢,此何足賀? [卷一 忠志]
(1')恭帝は僅かな生涯だった。寺で最期を遂げたようだ。
宣陽坊靜域寺,本【太穆皇】後宅。---佛殿東廊有古佛堂,---相傳雲隋【恭帝】終此堂。 [續集卷六 寺塔記下]

■朝廷樹立■
(2)楊王朝を立てながら、武力で凌駕することで、李王朝樹立につなげた。
初代皇帝高祖こと李淵は類い稀な武のスキルあり。しかして、隋の基盤のっとりに成功。
【高祖】少神勇。隋末,嘗以十二人破草賊號無端兒數萬。又龍門戰,盡一房箭,中八十人。
(3)そして、画策で、その地位を継いだ太宗は統治に邪魔な近縁者一切を片付け、帝国の武力支配を盤石なものに。李世民に特異な能力ありというのもうなづける。
【太宗】須,嘗戲張弓掛矢。好用四羽大,長常箭一膚,射洞門闔。
産卵中の漁獲を知り、即時禁止命令。いかにも、理ありの統治だ。
上嘗觀漁於西宮,見魚躍焉。問其故,漁者曰:“此當乳也。”於是中網而止。
馬は武の核だから人扱いして大事に。されど、神頼み的な猿馬信仰には不快感隠さず。
骨利幹國獻馬百疋,十疋尤駿。上為制名決波輸者,近後足有距,走歴門三限不躓,上尤惜之。
隋内庫有交臂玉猿,二臂相貫如連環。將表其轡。上後嘗騎與侍臣遊,惡其飾,以鞭撃碎之。

白鵲到来の吉兆奏上を笑う。賢者獲得こそ吉兆と。冷徹な合理主義者。それがわからぬ隋帝の没落必然と示唆。
貞觀中,忽有白鵲構単於寢殿前槐樹上。其巣合歡如腰鼓,左右拜舞稱賀。上曰:“我嘗笑隋帝好祥瑞。瑞在得賢,此何足賀?”乃命毀其巣,鵲放於野外。 [卷一 忠誌]
人間心理もよく心得ており、高度な組織マネジメントが行われていたとも言えよう。
王玄榮俘中天竺王阿羅那順以詣闕,兼得術士那羅邇婆,言壽二百。【太宗】奇之,館於金門内。造延年藥,令兵部尚書崔敦禮監主之。 [卷七 醫] →「名医の特徴」
玄金,唐【太宗】時,汾州言青龍白虎吐物在空中,有光如火,墜地陷入二尺。掘之,得玄金,廣尺余,高七寸。 [卷十 物異]
(但し、太宗ではない話かも知れぬが。)
《傳記》雲:“名医の特徴【太宗】使宇文士及割肉,以餅拭手。上目之,士及佯不寤,徐卷而啖。” [続集巻4 貶誤] →「人間心理」

■権力闘争化■
(4)盤石な王朝ができあがり、カリスマトップが消えた途端に、王朝組織のムードが一気に変わり始める。
高宗は気弱でゲン担ぎ。
【高宗】初扶床,將戲弄筆。左右試置紙於前,乃亂畫滿紙。角邊畫處成草書“敕”字,【太宗】遽令焚之,不許傳外。
(5)お蔭で、中宗,睿宗,武則天が入り乱れることに。
エスタブリッシュメントとは言い難い武の家系から、特異な女性権力者が輩出。
【則天】初誕之夕,雌雉皆。右手中指有K毫,左旋如K子,引之尺余。
反乱軍「檄文」起草者は敵だがアッパレなり、と。無能な貴族を使わずに、果敢にも、閨閥に無関係な有能な人材を次々と登用。
駱賓王為徐敬業作檄,極疏大周過惡。則天覽及“蛾眉不肯讓人,狐媚偏能惑主”,微笑而已。至“一А之土未幹,六尺之孤安在”,不ス曰:“宰相何得失如此人!” [卷一 忠志] →「唐詩人史」
と言っても、合理的思考の人ではない。睿宗の項で後述する三足烏の話は典型。
従って、気にいらなければすぐに虐殺というタイプ。最後は、逆に一族抹消の憂き目。
(6)ところが、則天系譜では一人だけ例外あり。武攸緒は殺害されず生き延びた。そういう意味で隠遁者になるのもアリというルールが確立された訳だ。以後、官僚はここらを上手に使うことになる。隠遁人気の源かも。
武攸緒,天後從子。年十四,潛於長安市中賣蔔,一處不過五六日。因徙升中嶽,遂隱居,服赤箭、伏苓。貴人王公所遺鹿裘、藤器,上積塵蘿,棄而不用。晩年肌肉始盡,目有紫光,晝見星月,又能辯數裏外語。安樂公主出降,上遣璽書召,令勉受國命,暫屈高標。至京,親貴候謁,寒之外,不交一言。封國公。及還山,敕學士賦詩送之。 [卷二 壺史]

(8)則天と違う気風で官僚統治に挑んだのが中宗。
狩猟を天子と官僚の交流行事化。
【中宗】景龍中,召學士賜獵,作吐陪行,前方後圓也。有二人雕,上仰望之。有放挫啼曰:“臣能取之。”乃懸死鼠於鳶足,聯其目,放而釣焉。二雕果撃於鳶盤。狡兔起前,上舉撃斃之。帝稱那庚,從臣皆呼萬
もちろん、官僚と一緒になって執り行う定例儀式を重視し、記念品授与などでなごやかムード形成。
*上巳節*
三月三日,賜侍臣細柳圈,言帶之免毒。
*清明節前日*
寒食日,賜侍臣帖彩球,繍草宣臺。
*立春*
立春日,賜侍臣彩花樹。
*臘日*
臘日,賜北門學士口脂、脂,盛以碧鏤牙筒。
お蔭で、自らの"ご逝去"まで組織的に決められたりして。
上嘗夢曰(一作白)鳥飛,蝙蝠數十逐而墮地。驚覺,召萬回僧曰:“大家即是上天時。”翌日而崩。 [卷一 忠志]

(9)傀儡の殤帝は当然ながら無視。なにせ、在位は710年の7月8日−7月25日なのだから。

(7)睿宗睿宗と言えば、カタツムリの移動した跡にも気になる体質。仏教と道教の力に頼るしかなかった。
【睿宗】嘗内庫,見一鞭,金色,長四尺,數節有蟲處,状如盤龍,上懸牙牌,題象耳皮,或言隋宮庫舊物也。
上為冀王時,寢齋壁上蝸跡成“天”字,上懼,遽掃之。經數日如初。及即位,雕玉鑄黄金為蝸形,分置於釋道像前。
 [卷一 忠志]
誕生時の扱いも独特だったし。
【睿宗】初生含涼殿,【則天】乃於殿内造佛氏,有玉像焉。及長,閑觀其側,玉像忽言:“爾後當為天子。” [卷三 貝編]
もちろん、則天とはソリ合わず。
予數見還往説,天後時,有獻三足烏,左右或言一足偽耳。天後笑曰:“但史冊書之,安用察其真偽乎?”
 「唐書」雲:“天授元年,有進三足烏,天後以為周室嘉瑞。【睿宗】雲:‘烏前足偽。’天後不ス。須臾,一足墜地。”
 [續集卷四 貶誤] →「羽 (鳳, 烏)」
仏教とはソリがあったようだ。
安國寺。紅樓,【睿宗】在藩時舞?。 [續集卷五 寺塔記上]招福寺---【睿宗】在藩居之, [續集卷六 寺塔記下] →「廃墟寺巡礼」

■最盛期■
(10)唐朝の繁栄の頂点は誰が見てもわかる玄宗期。
ところが、帝は楊貴妃寵愛に耽溺。
統治的には、禁中最優先となる。
【玄宗】,禁中嘗稱阿瞞,亦稱鴉。壽安公主,曹野那姫所生也。以其九月而誕,遂不出降。常令衣道服,主香火。小字蟲娘,上呼為師娘。為太上皇時,【代宗】起居,上曰:“汝在東宮,甚有令名。”因指壽安,“蟲娘為鴉女,汝後與一名號。”及代宗在靈武,遂令蘇澄尚之,封壽安焉。 [卷一 忠志]
(11)玄宗もこんなことをしていればどうなるかわかりそうなものである。安禄山が立ち上がる。
もともと、とてつもなき貢ぎ物をしていた訳で。(多すぎるし、訳のわからなう珍品だらけで、引用する気がしない程。)そんな方策でで反乱を押さえようとは姑息と言わざるを得まい。反乱勃発は、当然の結果と言わざるを得まい。
安祿山恩寵莫比,錫無數。----- [卷一 忠志]
当然、権力基盤を失うことになるが、そうなって妃を失ってもその面影で生きるような帝に。
天寶末,交趾貢龍腦,如蠶形。波斯言老龍腦樹節方有,禁中呼為瑞龍腦。上唯賜貴妃十枚,香氣徹十余歩。上夏日嘗與親王棋,令賀懷智獨彈琵琶,貴妃立於局前觀之。上數子將輸,貴妃放康國子於坐側,子乃上局,局子亂,上大ス。時風吹貴妃領巾於賀懷智巾上,良久,回身方落。賀懷智歸,覺滿身香氣非常,乃卸頭貯於錦嚢中。及二皇復宮闕,追思貴妃不已,懷智乃進所貯嚢頭,具奏它日事。上皇發嚢,泣曰:“此瑞龍腦香也。” [卷一 忠志]
玄宗と粛宗に関する記述は沢山あるので、ここでは「忠志」篇に記載されている話だけでご勘弁のほど。

(12)「忠志」における粛宗の逸話はそれほどのものではない。
【肅宗】將至靈武一驛,黄昏,有婦人長大,攜雙鯉咤於營門曰:“皇帝何在”衆謂風狂,遽白上潛視舉止。婦人言已,止大樹下。軍人有逼視,見其臂上有鱗。俄天K,失所在。及上即位,歸京闕,州刺史王奇光奏女墳雲:“天寶十三載,大雨,晦冥忽。今月一日夜,河上有人覺風雷聲,曉見其墳湧出,上生雙柳樹,高丈余,下有巨石。”兼畫圖進。上初克復,使祝史就其所祭之。至是而見,衆疑向婦人其神也。 [卷一 忠志]

■停滞兆候■
(13)「忠志」篇は第11代の代宗を最後にしている。李朝繁栄の頂点を極めた帝との約束には忠実。
【玄宗】,禁中嘗稱阿瞞,亦稱鴉。壽安公主,曹野那姫所生也。以其九月而誕,遂不出降。常令衣道服,主香火。小字蟲娘,上呼為師娘。為太上皇時,【代宗】起居,上曰:“汝在東宮,甚有令名。”因指壽安,“蟲娘為鴉女,汝後與一名號。”及【代宗】在靈武,遂令蘇澄尚之,封壽安焉。
吉兆の雲が現れたという手の話で〆ているが、親政は無理なので、皇族宗室代理朝政制度にせざるを得ない状態であり、統治機構はガタガタと崩れ始めたのである。
【代宗】即位日,慶雲見,黄氣抱日。初,楚州獻定國寶一十二,乃詔上監國。詔曰:“上天降寶,獻自楚州。神明生歴數之符,合璧定妖災之氣。”初,楚州有尼真如,忽有人接去天上。天帝言下方有災,令此寶鎮之,其數十二。楚州刺史崔表獻焉。一曰玄黄,形如笏,長八寸,有孔。辟人間兵疫。二曰玉,毛白玉也。王者以孝理天下則見。三曰穀璧,白玉也。如粟粒,無雕鐫之跡。王者得之,五穀豐熟。四曰西王母白環,二枚。所在處,外國歸服。五曰(闕名)。六曰如意寶珠,大如卵。七曰紅,大如巨栗。八曰瑯珠,二枚,逾常珠,有逾徑一寸三分。九曰玉塊,形如玉環,四分缺一。十曰玉印,大如半手,理如鹿形,入印中。十一曰皇後采桑鉤,細如箸,屈其末。十二曰雷公石,斧形,無孔。諸寶置之日中,皆白氣連天。 [卷一 忠志]
(14)せっかくだから、参考に、12代の徳宗も、他の箇所から引用しておこう。
相傳雲,【コ宗】幸東宮,太子親割羊脾,水澤手,因以餅潔之。太子覺上色動,乃徐卷而食。司空贊皇公著《次柳氏舊聞》又雲是【肅宗】。劉《傳記》雲:【太宗】使宇文士及割肉,以餅拭手。上目之,士及佯不寤,徐卷而啖。” [続集巻4 貶誤] →「人間心理」

(参考邦訳)
段成式[今村与志雄 訳]:「酉陽雑俎 1」東洋文庫/平凡社 1980・・・訳と註のみで、原漢文は非掲載.

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