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■■■ 「酉陽雑俎」の面白さ 2016.5.13 ■■■

有識無面目の帝江

道教的な元始思想としての宇宙創成概念の"混沌"と生成の"盤古"の話をした。[→]
理由のほどは知らぬが、それは、「荘子」応帝王篇第七に登場する"七竅に死す"中央天帝「渾沌」が象徴していると言われることが多い。
荘子は比喩的説話だらけで、この箇所は浅知恵の危険性を知らしてめていると考えることになる。しかし、そんなことを言いたいだけなら、なにも顔が無い不気味な"帝"を使う必要はなかろう。中華文化では、このような姿だと即妖怪と見なされるから、問答無用で殺戮の憂き目とあいなる筈だし。

それに、その形態は「山海經」西山經で天山の西南にいる昆虫的構造ともいえる六足四翼の「帝江」そっくりであり、そんなモチーフを用いる必然性がはたしてあるのか気になるところ。
在西三百五十里的地方是天山,那裡多金玉,有青雄黄,英水出焉,而在西南方向流注於湯谷。有神焉,有神焉,其状如黄嚢,赤如丹火,六足四翼,渾敦無面目,是識歌舞,實惟帝江。
両者は同一と見てほぼ間違いなかろうが、何故に顔も目も無く、全体が皮嚢のような訳もわからぬ姿にそこまで注目したくなるのだろうか。

ただ、この奇怪な"生物"は、本質的には歌舞的神鳥の類と考えるべきだろう。
氷河に覆われる山嶺に鳥では、違和感を与えるかもしれないが、白い大型猛禽類も存在するから、そうそうおかしな見方ではない。
しかし、ここではツル系の方。標高7,000級のヒマラヤを越えて飛来する大集団を指している可能性が高い。もちろん、"江"とは"鴻/おおとり"のこと。天山山脈(アムダリア+シルダリア源流地)の天池にやってきてダンスをするのであろう。
  「三月三日曲水詩序」 齊 王融[467-493年:六朝文人"竟陵八友"の1人]@文選
 發參差於王子,傳妙靡於帝江。
   ---李周翰 注---
   天山有鳥,状赤如丹,是識歌舞,至於妙靡,名帝江。


ただ、天山山脈は崑崙山脈(黄河源流地)とひっくるめ、西王母の居る高山と見られていたようである。もともと、西王母も奇怪な姿にさせられていたようだから、そこにいる神鳥も尋常な形態で表現される訳がないというだけ。
崑崙西有獸,有目而不見,有耳而不聞,有腹無五臟,有腸直短時徑過,名渾沌。 [「神異經」]

ともあれ、「帝江」の姿のユニークさは、特筆モノ。
好き嫌いはあるだろうが、一回でもイメージを頭に浮かべたら、以後忘れることなしの類い。
魯迅も「阿長與山海經」@朝花夕拾1926年で以下のように書いている。
但那是我最為心愛的寶書,看起來,確是人面的獸;九頭的蛇;一的牛;袋子似的帝江;沒有頭而“以乳為目,以臍為口”,還要“執干戚而舞”的刑天。

成式も当然ながら、【帝江=渾】と記載の上で引用。
天山有神,是為【渾】。状如而光,其光如火。六足重翼,無面目。是識歌舞,實為【帝江】。形夭與帝爭神,帝斷其首,葬之常羊山,乃以亂為目,臍為口,操幹戚而舞焉。 [卷十四 諾記上]

エスプリを愛する人々のサロンとしては、この話になれば盛り上がること必定。
なんと言っても、視る、聞く、嗅ぐ、味わうことが無いのだ。すべての情報は、体で感じたものだけ。
しかも、話したり書いたりもできないから、意思表示方法はボディランゲージに限られる。官僚社会の文字によるコミュニケーションは捨て去られている訳だ。
つまり、翼と足で各地を巡り、肌で感じたことを、ただただ踊りで表現することになる。食事などどうでもよく、ただただ表現欲だけで生きているのである。
にもかかわらず、当代随一の識者とされているらしいとくれば、様々な意見が飛び交うことになろう。

当たり前だが、そのような御仁に、通常コミュニケーションを強要すれば、表現能力の死が待っているだけ。

成式としても、「酉陽雑俎」の磨き込みにさらに力が入ることになっただろう。

(参考邦訳) 段成式[今村与志雄 訳]:「酉陽雑俎」東洋文庫/平凡社 1980・・・訳と註のみで、原漢文は非掲載.

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