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■■■ 「酉陽雑俎」の面白さ 2016.5.12 ■■■

虱話の意味

「女神話」が、李朝肅宗の即位の必然感を強化するため、上手に使われているとの指摘が記載されている、との話をした。[→]
中原では、黄土人形でヒトを造った地母神への信仰が根付いていた訳だ。従って、その神が譲位を支持していることを喧伝することで王権安定が図れる訳だ。

言うまでもないが、ここでのヒトとは高貴な家の人々のみを指す。下層の人々は、縄に泥をつけて、そこから滴り落ちてできたにすぎない。"人"としての形態など考えずに、ただただ大量生産したということになる。
この辺りについては、成式はなにもコメントしてはいない。仏教的な平等観からいえば、両者の差は無しとなる筈だが。

そんなことが気になるのは、実は、中華帝国の人類創出神話は女譚だけではないからだ。

もう一つは道教がよって立つ、宇宙創成神話に登場する話。
【混沌】→【天地開闢】→【万物創生】という流れである。

道教は、"元始"は混沌とした状況と考える。
【混沌】
有物混成,先天地生。寂兮寥兮,獨立而不改,周行而不殆,可以為天地母。吾不知其名,字之曰道,強為之,名曰大。 [「老子 道徳経」]

この何も無いところに、突如、原始巨人とでも言うべき元始天尊が現れ世界が誕生する、というのが道教の核心。
道經者,雲有元始天尊,生於太元之先,稟自然之氣,--- [「隋書」卷三十五 志第三十 經籍四]
   「神道視点での道教考(宇宙創成)」
その経緯や理由を問いたくはなろうが、それはおよそ馬鹿げた話。様々なトーテム(生肖)部族を統合するIDとして登場しているにすぎないのだから。その手法はおそらく印度伝来。
曰遂古之初 誰傳道之 上下未形 何由考之 冥昭暗 誰能極之馮翼惟象 何以識之 明明暗暗 惟時何為 陰陽三合 何本何化 [屈原:「天問」@「楚辭」]

そして、その「盤古」の存在により、世界は天と地に分かれていくのである。そんな変化のなかで、秩序が形成されていく。
【盤古開天辟地】徐整:「三五暦紀」曰.
天地混沌如子.盤古生其中.萬八千.天地開闢.陽清為天.陰濁為地.盤古在其中.一日九變.神於天.聖於地.天日高一丈.地日厚一丈.盤古日長一丈.如此萬八千.天數極高.地數極深.盤古極長.後乃有三皇.數起於一.立於三.成於五.盛於七.處於九.故天去地九萬里.
 [唐 「芸文類聚」巻一 天部上 天]

ところが、盤古が死ぬ。そのお蔭で、死体から転生して、世界が形作られていくことになる。
【盤古化生萬物】
盤古垂死化身
 氣成風 雲 聲為雷霆 左眼為日 右眼為月
 四肢五體為四極五嶽 血液為江河 筋脈為地里
 肌膚為田土 髪髭為星辰 皮毛為草木
 齒骨為金石 精髓為珠玉 汗流為雨澤
 
身之諸蟲因風所感化為黎氓
 (呉 徐整:「五運歴年紀」) [明 董斯張 撰:「広博物志卷九」@欽定四庫全書]

道教的には、「無極→太極→両儀→四象→万物」という論理をこの神話に適応して、経典化を図っていった訳である。難しくしているだけで、要は、元始に関する概念の共有こそが信仰の核。混沌の後は単なる複雑化にすぎぬから、どんな土着信仰だろうが習合させてしまえば、一本化できるのである。
有始者,有未始有有始者,有未始有夫未始有有始者。有有者,有無者,有未始有有無者,有未始有夫未始有有無者。所謂有始者,繁憤未發,萌兆牙,未有形埒垠,無無,將欲生興而未成物類。有未始有有始者,天氣始下,地氣始上,陰陽錯合,相與優游競暢于宇宙之間,被コ含和,繽紛蘢,欲與物接而未成兆朕。有未始有夫未始有有始者,天含和而未降,地懷氣而未揚,虚無寂寞,蕭條霄,無有仿佛,氣遂而大通冥冥者也。有有者,言萬物落,根莖枝葉,青葱苓蘢,R煌,動,息,可切循把握而有數量。有無者,視之不見其形,聽之不聞其聲,捫之不可得也,望之不可極也,儲與扈冶,浩浩瀚瀚,不可隱儀揆度而通光耀者。有未始有有無者,包裹天地,陶冶萬物,大通混冥,深廣大,不可為外,析豪剖芒,不可為内,無環堵之宇而生有無之根。有未始有夫未始有有無者,
 天地未剖,
 陰陽未判,
 四時未分,
 萬物未生,
 汪然平靜,
 寂然清澄,
 莫見其形,
若光燿之間於無有,退而自失也,曰:「予能有無,而未能無無也。及其為無無,至妙何從及此哉!」夫大塊載我以形,勞我以生,逸我以老,休我以死。
 [西漢 劉安:「淮南子」卷二 俶真訓]
天墜未形,翼翼,洞洞,故曰太始。 [西漢 劉安:「淮南子」卷三 天文訓]

ただ、この神話も時代の要請で様々な脚色が加わり、結構、複雑な話に仕上がっていく。ついには盤古の結婚話まで登場するのであるから。・・・
昔 盤古氏之死也
 頭為四岳 目為日月 脂膏為江海 毛髮為草木
秦漢間俗説:盤古氏
 頭為東岳 腹為中岳 左臂為南岳 右臂為北岳 足為西岳
先儒説:盤古氏
 泣為江河 氣為風 聲為雷 目瞳為電
古説:盤古氏
 喜為晴 怒為陰
呉楚間説:盤古氏
 夫妻陰陽之始也

今南海 有盤古氏墓 亘三百餘里
俗云後人追𦵏盤古之魂也
桂林有盤古氏廟
今人祝祀
南海中盤古國
今人皆以盤古為姓ム按
盤古氏
 天地萬物之祖也 然則生物始於盤古
 [梁 仁ム:「述異記」卷上@欽定四庫全書]

これ以上、引用する気はないが、盤古のこの後の系譜として、天の玉帝・地の黄帝が登場してくる訳だ。そこから、政治関与話になっていく。

この辺りのことを、成式が知らない筈はないが、一切触れていない。
唐はあくまでも道教国家であり、当時の道教の正典に楯突くような話はタブーだからだ。

しかし、「女神話」を、唐朝史譚として持ち出したということは、ここらにもチョッカイを出したいということだろう。と言うか、サロンでの、とりとめもない議論のなかで、そんな話がとびかったに違いないのである。
さすれば、どこかに、関連話が組み込まれている筈である。そう思って探すのも一興。

それは、外部寄生虫話。

生物学的には、外部寄生虫は宿主が死に至るほどの害を及ぼすことは滅多にないと言われるが、そうとも限らない、というような議論があったと思われる。虱に関してである。
虱の生態は知らぬが、微小な外部寄生虫は温度変化には敏感であると言われており、宿主の体温が下がると、すべてが一挙にワラワラと逃げ出すのではなかろうか。もちろん体温が戻ればすかさず帰って来る。現金な生物である。
そんなことを書いた一文がある。
題をつけるなら、「病人が治るか死ぬかを教える虱」か。
相傳人將死,虱離身。或雲取病者虱於床前,可以蔔病。將差,虱行向病者,背則死。 [續集卷二 支諾皋中]

そんな話で、サロンはどうして盛り上がれるのかといえば、盤古が万物を生んだとされるが、身体の上についていた蟲が民と化したとされるから。
当たり前だが、盤古が死ねば、遺骸と共にいてはアカンということで、虱がワラワラと一斉に逃げ出したのである。

(参考) 孫樹林:「盤古の天地開闢と道家思想」島根大学外国語教育センタージャーナル 8, 2013・・・"裏付けとなるより詳細な史的資料の欠乏,とりわけマルクスの史的唯物論などに囚われているゆえ,中国における宇宙創成や人類誕生などに関する神話伝説の研究は,たいてい同じ唯物的次元で徘徊しており,諸々の論考に小異あっても大差なしという状況"と。
(参考邦訳) 段成式[今村与志雄 訳]:「酉陽雑俎」東洋文庫/平凡社 1980・・・訳と註のみで、原漢文は非掲載.


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