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■■■ 「酉陽雑俎」の面白さ 2016.5.15 ■■■

神か水妖か

黄河の神とされる「河伯」を眺めてみたが、[→]に軽く触れたが、その辺りの話を恣意的に除外していることにお気付きになっただろうか。

実は、これらの神は中華帝国のお墨付き。
祭祀規定もある列記とした国定神。漢 宣帝が,神爵1年[B.C.61年]に4河川での正式祭祀化を果たしたとされるが、中華帝国樹立時からの古い習わしの可能性が高そう。
天子諸侯宗廟之祭---。
天子祭天下名山大川:五嶽視三公,四視諸侯。諸侯祭名山大川之在其地者。
 [禮記 王制第五]
要するに、四讀神作為河川代表列入國家把典,設立專門的祭把制度ということ。
道教が事実上の国教である李朝の唐は、当然ながら、それに輪を掛けたが如く力が入ったに相違ないのである。
結局のところ、黄河の神は、靈源公として封ぜられたのである。
五嶽、四鎮、四海、四,年別一祭,各以五郊迎氣日祭之。---
六載
[747年],河封靈源公,濟封清源公,江封廣源公,淮封長源公。 [劉:「舊唐書」卷二十四 志第四 禮儀四]
(約700名に及ぶ神仙の階級を正し、位業を正当に顕現するために作られたという陶弘景[456-536年]:「真霊位業図」によれば、河伯は第四階位太清の右位六三。[李剣楠:「『洞玄霊宝真霊位業図』について」])

つまり、成式先生は、この辺りの話を無視して、様々な呼び方があるゾと書いたということ。
しかも、別な箇所に河の妖怪譚を入れ込んでいる。
人面魚身の姿だとしたら、どんな扱いになるか考えてみヨということだろう。

もちろん、それが妖たる女性なら、それなりの扱いもありえようが、そうではないようだ。つまり、奇怪にしか映らない訳で、はたして、そんな姿の神が尊崇の対象になるだろうか、気になるネ〜という問題提起。

なにせ、中華の妖怪に対する精神風土は凄まじいものがある。その手の姿を見つけたら、何がなんでも即刻殺戮。容赦などありえない。・・・
嚴綬鎮太原,市中小兒如水際泅戲。忽見物中流流下,小兒爭接,乃一瓦瓶,重帛幕之。兒就岸破之,有嬰兒,長尺余,遂走。群兒逐之,頃間足下旋風起,嬰兒已蹈空數尺。近岸,舟子遽以撃殺之。髪朱色,目在頂上。
[續集卷三 支諾下]
厳綬が太原をおさめていた頃の話。
市中の子供達が水際で泳いで戯れていた。中流から流れてきたものがあり、競争して取ったところ、瓦材の瓶。帛を重ねた包装で、えらくご立派。その中から、身長1尺余りの嬰兒が出てきて一気に遁走。子供達追走す。---結局のところ、岸辺で船頭によって叩き殺されてしまう。

水怪撲滅は徹底しており、そうなると誤って水神の子供を殺す可能性はないのだろうか。はなはだ気になる。
中華文化では、神と怪は紙一重の世界と言ってよさそう。

換言すれば、これは中華帝国の異文化取り込みに当たっての基本方針そのもの。違和感があるなら、ともあれ殺戮。
たまたまそれを逃れることができて、誰かに匿われ、「ご利益」が判明すると、掌を返したように態度は一変するが。
もちろん、怪の方が強かったら、併存の道。その場合は怪に対して管理可能な官僚制体制を敷かせることになる。それが権力者の務め。怪を取りまとめる官僚組織を、朝廷の官僚組織が治める体制が確立すれば一件落着。
これは骨の髄まで浸み込んでいる文化と見てよさそう。

ちなみに、【1】"河伯"の別称とされる"夷"神はどのような扱いかというと、こんな具合。・・・
【2】"冰夷"
冰夷倚浪以傲睨,江妃含眇。 [郭璞:「江賦」@文選卷十二]
從極之淵 ,深三百仞,惟冰夷恒都焉。 冰夷人面,乘兩龍。 [「山海経」海經 卷七 海内北經]
【3】"馮夷"
   人頭蛇身の女との並称扱い。龍神かも。
於是屏翳收風,川后靜波。馮夷鳴鼓,女清歌。
騰文魚以警乘,鳴玉鸞以偕逝。
六龍儼其齊首,載雲車之容裔。
鯨鯢踴而夾轂,水禽翔而爲衛。
 [曹:「洛神賦」]
   道教的には、道を得て、大川に遊ぶという。
馮夷得之,以遊大川 [「荘子」内篇大宗師第六]
奄息總極氾濫水嬉兮,使靈鼓琴而舞馮夷 [西漢 司馬相如:「大人賦」]
[=氷]+馬」という文字から見て、この名前は、黄河中流域の中原支配の象徴という気もする。馬の人達から見ると、河に拘る民はあくまでも夷だったのだろうが、それを取り込んだということか。なんだろうが習合してしまえということで。
逆の立場から見れば、馬の官僚に河の神が従ったとなろう。怪と見なされずに、神にしてもらった訳である。
ついつい、そんな風に思ってしまうのは、土着信仰の集合体たる道教に入れ込んだ詩人が、響山@安徽宣城に築かれた楼台で挙行された重陽節の宴で、"馮夷"を引いているから。
  「九日登山」 李白
淵明歸去來,不與世相逐。爲無杯中物,遂偶本州牧。
因招白衣人,笑酌黄花菊。我來不得意,虚過重陽時。
題輿何俊發,遂結城南期。築土按響山,俯臨宛水
胡人叫玉笛,越女彈霜絲。自作英王胄,斯樂不可窺。
赤鯉湧琴高,白龜道
馮夷。靈仙如仿佛,奠遙相知。
古來登高人,今複幾人在。滄洲違宿諾,明日猶可待。
連山似驚波,合出溟海。袂揮四座,酩酊安所知。
齊歌送清,起舞亂參差。賓隨落葉散,帽逐秋風吹。
別後登此台,願言長相思。


ご参考に、"江"も引いておこう。
こちらの名前は「」である。
漢光武中平中,有物處於江水,其名曰「」,一曰「短狐」能含沙射人,所中者,則身體筋急,頭痛,発熱,劇者至死,江人以術方抑之,則得沙石於肉中. 詩所謂「為鬼,為」,則不可測也,今俗謂之「溪毒」.先儒以為男女同川而浴,淫女,為主亂氣所生也。 [捜神記 卷十二]
王莽建國四年,池陽有小人景,長一尺餘,或乘車,或歩行,操持萬物,大小各自相稱,三日乃止。莽甚惡之。自後盜賊日甚,莽竟被殺。管子曰:「涸澤數百,谷之不徙,水之不絶者,生『慶忌』。『慶忌』者,其状若人,其長四寸,衣黄衣,冠黄冠,戴黄蓋,乘小馬,好疾馳,以其名呼之,可使千里外一日反報。」然池陽之景者,或「慶忌」也乎。又曰:「涸小水精,生『』。」「」者,一頭而兩身,其状若蛇,長八尺,以其名呼之,可使取魚 [捜神記 卷十二]

ついでながら、淮河の神は「無支祁」。こちらは完璧に奇怪。

(参考邦訳) 段成式[今村与志雄 訳]:「酉陽雑俎」東洋文庫/平凡社 1980・・・訳と註のみで、原漢文は非掲載.

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