表紙 目次 | ■■■ 「酉陽雑俎」の面白さ 2016.5.18 ■■■ 徐敬業の逸話大陸の古代史をよくご存知の方は別だが、「酉陽雑俎」は注をよくよく読みこまないとさっぱり面白くない。そんな例をご紹介しておこう。・・・徐敬業年十余歲,好彈射。 英公毎曰:“此兒相不善,將赤吾族。” 射必溢鏑,走馬若滅,老騎不能及。 英公常獵,命敬業入林趁獸,因乘風縱火,意欲殺之。 敬業知無所避,遂屠馬腹,伏其中。 火過,浴血而立,英公大奇之。 [卷十二 語資] 徐敬業は10代で、はや彈射を好んだ。 英公は毎日のように言っていた。 「この児の人相は善くない。 将に、我一族に赤信号を灯すようなもの。」 ただ、敬業の所業は凄く、鏑矢を射れば、溢れかえるよう。 馬を走らせれば、滅失した如きで、老練騎士も追いつかない。 狩猟を常としていた英公は、敬業に、林に入って獸を捉えるよう命じた。 そして、風に乗せて火を放った。殺してしまおうとの意欲満々で。 敬業は避難場所が無いことに気付く。そこで、馬の腹を屠り、その中に入って伏せた。 猛火通過後、全身に血を浴びた敬業が立ち上がった。 それを見た英公は、奇跡を起こしたようなもの、と。 オホナムチが放った矢を取りに行くと、野原に火をつけられしまう古事記の話をついつい想いだしてしまうが、そのような逸話とは意味が全く違う。 "武則天が反乱軍「檄文」起草者は敵だがアッパレなり、と。"・・・そんな話をした。 → 「李王朝前期略史」 その反乱軍の親玉が徐敬業なのである。もちろん、鎮圧される。 武則天は、無能な貴族を使わずに、果敢にも、閨閥に無関係な有能な人材を次々と登用したのだが、徐敬業はからきし駄目だが、彼が使った人材は傑物と言っているようなもの。 もちろんのことだが、李姓は功臣ということで祖父が賜ったもの。系譜的には以下のようになっている。 徐盖[n.a.-633年]・・・舒国公 ┼│ ┌┴─┐ │ [弟]李弼,李感[604-618年] 李勣[594-669年]=徐世勣・・・英国公 ┼│ ┌┴─┐ │ [弟]李思文 李震[617-665年] ┼│ ┌┴─┐ │ [弟]徐敬猷 李敬業[636-684年]=徐敬業 この話の英公とは、徐敬業の祖父である。李朝を支えた軍人で大物政治家の李勣のこと。 ところが、父が早死にしたため、その地位を受け継いだ訳だ。 そんな家系であるから、この逸話でも、軍事の能才たる李勣の血を受け継いでいることが示されている訳だ。 しかしながら、受け継げなかった能力も多々ある。 祖父は帝の疑心を察しながら上手く立ち回ったが、その孫は"勇"で才もあったようだが、社交的には頭回らずだったようだ。場と自分の役割を考え、適切な喜怒哀楽の感情表現をすることが苦手だった可能性もあろう。従って、血族の長として縁戚をもとりまとめての政治力発揮はほとんど期待できぬと早くから見抜かれていたのであろう。 それに、反乱に立ち上がっただけで、李朝復活構想を欠いていたようだし、軍事戦略的にも稚拙で、大局観なき凡人と見ることもできよう。 従って、武則天打倒の奇跡はおきず、ただただ敗退するしかなかったのである。 (参考邦訳) 段成式[今村与志雄 訳]:「酉陽雑俎 2」東洋文庫/平凡社 1980・・・訳と註のみで、原漢文は非掲載. 「酉陽雑俎」の面白さの目次へ>>> トップ頁へ>>> (C) 2016 RandDManagement.com |