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■■■ 「酉陽雑俎」の面白さ 2016.5.28 ■■■

画論

中華社会は「有三本書」という言葉が好きなようである。
例えば、《道コ經+黄帝内經+周易》といった具合に。

どうも、それよりは、《寺塔記+益州名畫録+元代畫塑記》という組み合わせが知られているようだ。書店の宣伝だけではなさそうである。
つまり、段成式:「寺塔記」@酉陽雑俎は、画論の書とされていることになる。

確かに、それはわからぬでもない。

「寺塔記」[續集卷五/卷六]には、玄宗の宮廷画家 呉道玄の寺院壁画の話が繰り返し登場するからである。 [→]
の真筆画は現存していないので、実際のところ、どんな絵画だったかはわからぬとはいえ、地獄変が衝撃的だったのは間違いなさそう。
その辺りの状況を成式はじっくりと書いており、そのようなタイプの本があるとは思えないから希少価値的な画論の書と見なすのは正当と言えよう。

ちなみに、こんな感じである。・・・
【大安國寺@長楽坊東一条】
樂坊安國寺紅樓。睿宗在藩時舞
東禪院。亦曰木塔院。院門北西廊五壁。呉道玄弟子釋思道畫釋梵八部。不施彩色,尚有典刑。

【趙景公寺@常楽坊東六条/弘善寺】
常樂坊趙景公寺隋開皇三年置。本曰弘善寺。十八年改焉。南中三門裏東壁上。呉道玄白畫地獄變。筆力勁怒。變状陰怪。睹之不覺毛戴。畫中得意處。
【菩提寺@平康坊東五条】
平康坊菩薩寺。食堂東壁上。呉道玄畫智度論色偈變。偈是自題。筆跡遒勁。如磔鬼神毛發。次堵畫禮骨仙人。天衣飛揚。滿壁風動。
佛殿内槽後壁面。呉道玄畫消災經事。樹石古嶮。元和中上欲令移之。慮其摧壞。乃下詔。擇畫手寫進。

【光宅寺@光宅坊東一条】
建中中,有僧竭造曼殊堂,將版基於水際,慮傷生命,乃建三月道場,祝一足至多足、無足令他去。及掘地至泉,不遇蟲蟻。又以復素過水,有蟲投一井水中,號護生井,至今涸。又鑄銅蟾為息煙燈,天下傳之。今曼殊院嘗轉經,毎賜香。寶臺甚顯,登之,四極眼界。其上層窗下尉遲畫,下層窗下呉道玄畫,皆非其得意也。丞相韋處厚,自居内廷至相位,毎歸輒至此塔焚香瞻禮。普賢堂,本天後梳洗堂,葡萄垂實,則幸此堂。今堂中尉遲畫頗有奇處,四壁畫像及脱皮白骨,匠意極險。又變形三魔女,身若出壁。又佛圓光,均彩相錯亂目。成講東壁佛座前錦如斷古標。又左右梵僧及諸蕃往奇,然不及西壁,西壁逼之然。
【浄域寺@宣揚坊東六条】
宣陽坊靜域寺,本太穆皇後宅。寺僧雲:“三階院門外,是神堯皇帝射孔雀處。禪院門内外,《遊目記》雲王昭隱畫。門西裏面和修吉龍王,有靈。門内之西,火目藥叉及北方天王,甚奇猛。門東裏面賢門也,野叉部落。鬼首上蟠蛇,汗煙可懼。東廊,樹石險怪,高僧亦怪。西廊,萬壽菩薩。院門裏面南壁,皇甫軫畫鬼神及雕形,勢若脱。軫與呉道玄同時,以其藝逼己,募人殺之。

成式のことだから、鬼の絵を褒める場合、アフォリズム的な要素が絡む可能性もある。そこを勘案しておく必要があろう。・・・「韓非子外儲説左上」の次の記述を知っているとの前提で書かれているのは間違いないからである。
それに、何をもって"迫真"と呼ぶかは、はなはだ難しいものがある。
今世之談也,皆道辯説文辭之言,人主覽其文而忘有用。[説一]
客有為齊王畫者,
齊王問曰:「畫孰最難者?」
   曰:「犬馬最難。」
     「孰易者?」
   曰:「鬼魅最易。」
夫犬馬,人所知也,旦暮於前,不可類之,故難。
鬼魅無形者,不於前,故易之也。
 [説二]

ただ、犬馬の図画にしても、素晴らしい作品が生まれるのは宋代以降であろう。命の息吹を感じさせる絵画はその辺りからだから。西洋的な、対象をただただ徹底的に観察した細密画との違いが大きいので、そう感じるだけかも知れぬが。もっとも、人物系絵画は、背景を気にすることもなく、凡庸なものが多い感じがする。

それはともかくとして、画論でいえば、こんな流れで考えればよいのでは。あくまでも、その流れのなかでの呉道玄である。

中華帝国とは官僚制度のヒエラルキーありき。従って、絵画に優劣をつけることが重視される。画家を官僚的に扱うのであるから、九品官人法の適応から始まることになる。
その発想を無理矢理に絵画観に仕立て上げた書が、南北朝代の謝赫[南斉の画家]:「古画品録」と見るとよかろう。
六法(氣韻生動,骨法用筆,應物象形,随類賦彩,経営位置,傳移模寫)で優劣評価の上、ランク付け。第一品から第六品に分けて27人を論評したにすぎない。しかし、以後、この見方から外れる訳にはいかなくなるのである。

その続編として、銚最:「続画品」、さらに、唐代に入ると、彦椋:「後画録」、装孝源:「貞観公私画史」、李嗣真:「続画品録」と続き、張懐:「画断」に繋がるというのが、一般的な見方のようだ。但し、これらの書物は完本が残存している訳ではなく、信頼性を欠くソースも多いから、内容吟味は難しい。
はっきりしているのは、武則天期迄の画論は結構存在していたという点のみ。
最後にあげた「画断」は、かなりわかっており、画家の頂点を顧ト之とし、神妙能の三品評価がなされている。つまり、御用絵師の筆頭を任命し、画家のランク付け用語を道教的にしただけに過ぎまい。

そんな評価用語を完璧に定式化したのが、朱景玄:「唐朝名画録」である。
唐代画家124人を神、妙、能、逸でランク分けしたもの。前3つの品格については上中下の評価がつく。従来型方法論を踏襲したにすぎない。それに、例外扱いするしかなさそうな作品のカテゴリーが加わっただけのこと。
“画格不拘常法”的画家即入逸品。
逸品を認めたことで、ようやくにして、オリジナリティが十二分に発揮されている作品も賞賛可能になった訳である。インターナショナル化してきた時代の風潮に合わせるしかなくなったのだろう。
古今画品,論之者多矣。隋梁以前,不可得而言。自国朝以来,惟李嗣真《画品録》空録人名而不論其善惡,无品格高下,俾后之觀者,何所考焉?景玄窃好斯芸、尋其蹴跡、不見者不録、見者必書,推之至心、不愧拙目。[序]

思うに、ここまで整理されれば、帝公認の正式な絵画史が現れておかしくない。時代順編纂方針と書名から見て、それに当たるのが張彦遠:「歴代名画記」@847年ではないか。
当然ながら、この書では、頂点を呉道玄としている。
もちろん、六法の踏襲本でしかないが、網羅的な体系に映るところがミソ。
先ずは、一定技術レベルをクリアすると能畫人として認定。
自軒轅至唐會昌凡三百七十三人。
その上で上中下の品格評価。名称が変わったにすぎまい。
自然者,爲上品之上;神者,爲上品之中;妙者,爲上品之下;精者,爲中品之上;謹而細者,爲中品之中。余今立此五等,
もともと、書に関しては、帝室に判断基準があったが、画はそれに付随するものとして見ていただろうから、こうした見方は、画収集家の意見をそのまま取り入れたのではないかと思われる。と言うか、中華帝国の風土から考えれば、著名な好事家に評価させた上で、秀逸とされる作品すべてを没収して、帝室所有にしたかったということだと思われる。

成式の時代からずっと後世に編纂された書だが、758〜968年に成都で活躍した画家の評論集とされる、宋代の黄休復:「益州名畫録」もこの手の記述だ。(逸格1人,神格2人,妙格28人,能格27人)中原は戦乱だらけだったが、四川は逃れたので、残存絵画が豊富ということで作られた書かも知れぬ。
おそらく、「歴代名画記」の追補的役割を担っているのだろう。そういう点では、五代では劉道醇:「五代名画補遺」、「聖朝名画評」、宋代では、郭若虚:「図画見聞誌」,ケ椿:「画継」があがってくるようだ。調べていないので、これらがどのようなものかは定かではないが。

マ、こうして眺めてみると、中華帝国に於ける画論とは、優劣評価ハンドブックにすぎない。成式のお寺見て歩きの随筆的観賞本の方が画論らしさあり。読もうというなら、他より余程魅力的。
但し、書籍の売れ行きとしては、圧倒的にハンドブックタイプだろう。美術館などない時代なのだから。しかも、本を読むのはもっぱら官僚とその予備軍。彼等にとっては、観賞などどうでもよい話だろう。絵を眺める機会を与えられることが嬉しい訳で、それを自慢することこそが「観賞」なのである。絵の話ができて、初めて特権階級入りできたことが実感できるのである。そのためのハンドブックである。

(参考邦訳) 段成式[今村与志雄 訳]:「酉陽雑俎 4」東洋文庫/平凡社 1980・・・訳と註のみで、原漢文は非掲載.

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