表紙 目次 | ■■■ 「酉陽雑俎」の面白さ 2016.6.2 ■■■ 鬘持天「卷三 貝編」は、直前の壺篇("道士逸話")に対比した"仏教経典録異"であるが、この部分のご紹介として、<僧萬回の話><狂僧の話><驢僧の呪力>といった、宗教とは直接関係ないアッハッハ的な話を取り上げてしまった。 [→「壺と貝」]それは、ある意味、当時の宗派活動の本質を示すものとなってはいるが、仏典における"異"ではないので、そこらを書いておこうと思う。 この篇の冒頭のパラグラフは、お読みになる前提として、この程度の知識は不可欠という注意書。当時は、この程度は常識だったことがよくわかる。 釋門 三界二十八天、 四洲至華藏世界、 八寒八熱地獄等, 法自三身、五位、四果、 七支至十八界、 三十七道品等, 入釋者率能言之。 今不復具,録其事尤異者。 と言うことは、現代人の知識はほとんど生半可状態だから、この篇を讀んだところで何もわからぬことになる。そんなこともあるのか、今村与志雄の注も懇切丁寧。しかし、浅学の身だと、せっかく大切な点を指摘してもらっても気付かなかったりするもの。 しかし、それを恐れていると、永久に読むことができない。なにも気にせず眺めるのが一番。 早速、最初の"録異"話から。たったの17文字。・・・ 鬘持天, 十住處 十六分中 輪王樂 不及其二。 ソースの仏典は、「正法念處經卷第二十二 觀天品第六之一 四天王初」般若流支訳で、そこからのメモのようなもの。 鬘持天,---屬四天王天。 聞き慣れない名前である。「鬘」の意味は"かずら"であり、音読みならバンだが、字形からどうしてもマンと呼んでしまう。 固有名詞の漢訳だから、音の解釈によっては全く違う漢字になることはあり得るとはいえ、よく知られている四天王とどう関係するのか気になってくる。 ここでおさらい。 四天王天だが、通常は、"三界二十八天"の人間界に一番近いところを指す。 無色界・・・四天 色界・・・十八天 色究竟天 : : 大梵天 梵輔天 梵衆天 欲界(六道) 天上界・・・六天 他化自在天 化楽天 兜率天 夜摩天 忉利天/三十三天 四天王天← 人間界 修羅界 畜生界 餓鬼界 地獄界 そして、四天王天とは、忉利天[=須弥山頂上]に居る帝釈天に仕える王衆が構えている場所。普通は、「持国天,増長天,広目天,多聞天」とされる。 東為持國天王 住須彌山黄金埵 西為廣目天 住須彌山白銀埵 南為搨キ天 住須彌山瑠璃埵 北為多聞天 住須彌山水晶埵 [「四天王經」] 鬘持天は、これらとは考え方が異なるようで、五大區(鬘持天,迦留天,恣意天,箜篌天,行天)を指すらしい。 この鬘持天の住む所が10ケ所有り、とされると、一体ソリャなんなんだとなるが、こんな具合。 【十住處】白摩尼,峻崖,果命,白功コ行,常歡喜,行道,愛欲,愛境,意動,遊戲林 「酉陽雑俎」の原文だが、上記に示したパラグラフには、さらに続いて一行あり。 四種樂, 一無怨,二隨念及天女不念余天等,身香百由旬。 はたして、文章として繋がっているのか、独立したものか、はなはだわかりにくいが、「正法念經卷第二十三 観天品六之二 四天王之二」般若流支訳の、上記第五地の"常歡喜"の説明部分にあたる文章をさしているようだ。そこは、花供養の地ということで。 生一切歡喜行天。生彼天己。受四種樂。何等爲四。一者無怨。二者隨念能行。三者餘天不能勝其威コ。四者天女不念餘天。五種伎樂歌舞。 なるほど、人間界から天界に入るということは、そういうものかといった印象。 さて、もとのパラグラフの残りの部分に戻って、対応している原典から抜書きしてみるとこんなところか。・・・ 轉輪王樂。不及其一。其地有河。名曰欲流。--- 十六分中不及其一。如是天子妙色盈目。乾闥婆音以ス其耳。種種香風鼻所ス樂。如是五欲境界。--- 不及其一。身所衣服。無有經緯綖縷之文。--- (頌) 六根愛著,境界所燒,愛火燒天,過於焚林,得樂愛樂,為樂所誑,不念退沒,愛所欺誑,諸樂必盡,無有常者,欲得常樂,應舍愛欲,諸天退時,離天樂處,恩愛別離,過地獄苦. マ、わかったような、わからないような。 ともあれ、四天王の話である。 となると、鬘持天以外はどうなっているのだ、となる。そんな一行が次に続いている。 迦留波陀天,此由象跡有十地也。 "迦留波陀/象跡天"の所在地も十種ある訳だ。 行蓮華,勝蜂,妙聲,香樂,風行,鬘喜,普觀,常歡喜,愛香,均頭 [「正法念經二十三 観天品六之二 四天王之二」] 上記の"鬘持天"の十住處で、成式は、"常歡喜"について一行記述しているから、そこにこだわりがあるのだろうか。 十地と言えば、普通は「華嚴經 十地品」のこと。[法雲,善慧,不動,遠行,現前,難勝,焔慧,發光,離垢,歡喜.]菩薩が修行して得られる地位である。その一番初めが「歓喜地」であり、皆さん大いに気になるだろうということか。 その「歓喜地」だが、一般的には、こんな説明がなされている。・・・ "菩薩が既に初阿僧祇劫の行を満足して、 聖性を得て見惑を破し、 二空の理を証し大いに歓喜する位。 仏法を信じ、 一切衆生を救済しようとの立願を起こし、 ついには自らも仏になるという希望を持ち 歓んで修行する。" 覚悟を決めて修行を始め、ようやくにして訓練生的な境地を脱すことができて、自分も聖者の仲間入りができたと感じた段階ということになる。そこで、大いなる喜びに包まれる訳だ。 そんな喜びを常態にもってこれるようになると、解脱の方向にかなり進んだことになる。 ざっと眺めてみたが、素人には、結局のところ、これらは何を考えての指摘かよくわからない。しかし、原始文献と思しき「発句経/Dhammapada」[「法句譬喩經」西晉 法炬,法立 譯]の感覚が漂っている気になってきた。それが、成式の意図なのか、こちらの思い込みなのかはわからねど。 地上を統治するよりも、・・・地上の王"轉輪王" また天に往くよりも、・・・天界"帝釈天" 一切世界の王位よりも・・・色界"大梵天" 預流の果を勝れたりとす。 (預流の果―佛教に確信を得ること。) [荻原雲來訳註「法句經」一七八@青空文庫] 帝釈天の手下たる、天の最下位に位置付けされている鬘持天あたりのポジションを考えた修行といっても、その内実は人間の行為となんら変わりは無い。預流の果で十分すぎるはど。 仏典逍遥を一番の楽しみとするといった辺りでお茶を濁すのが俗人としては一番かも知れぬ。凡人にとっては、それも又「歓喜」の一種だから。 ただ、「酉陽雑俎」を仏典逍遥の書としてみるべきではない。"成式腹笥三藏,請詞其コ。"[「全唐文 卷七百八十七 段成式」]と呼ばれるほどの博識ぶりだから、「貝編」ができあがった訳ではないのである。仏典の記載内容の出自というか、"どうしてそうなるの?"がわかる話をしたかっただけ。仏教だからこそ、こんなことができるというのが、とてつもなく嬉しいのである。 (引用) 般若流支訳[刊行會編]:「正法念處經」@大正新脩大藏經 大藏出版 1988 (参考邦訳) 段成式[今村与志雄 訳]:「酉陽雑俎 1」東洋文庫/平凡社 1980・・・訳と註のみで、原漢文は非掲載. 「酉陽雑俎」の面白さの目次へ>>> トップ頁へ>>> (C) 2016 RandDManagement.com |