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■■■ 「酉陽雑俎」の面白さ 2016.7.1 ■■■

妬婦

婦津】の話をとりあげてみよう。
婦津,相傳言,晉大始中,劉伯玉妻段氏,字光明,性忌。伯玉常於妻前誦《洛神賦》,語其妻曰:“娶婦得如此,吾無憾焉。”明光曰:“君何以水神善而欲輕我?吾死,何愁不為水神。”其夜乃自而死。死後七日,托夢語伯玉曰:“君本願神,吾今得為神也。”伯玉寤而覺之,遂終身不復渡水。有婦人渡此津者,皆壞衣枉妝,然後敢濟,不爾風波暴發。醜婦雖妝飭而渡,其神亦不也。婦人渡河無風浪者,以為己醜,不致水神怒。醜婦諱之,無不皆自毀形容,以塞嗤笑也。故齊人語曰:“欲求好婦,立在津口。婦立水旁,好醜自彰。” [巻卷十四 諾記上]→「太平廣記巻272婦人三段氏」
晋の大始[265-275年]年中、劉伯玉の妻段氏は字を光明といい、すこぶる嫉妬ぶかい婦人であった。
伯玉は常に洛神の賦
[古人有言 斯水之神 名曰妃---]を愛誦して、妻に語った。
 「妻を娶るならば、洛神のような女が欲しいものだ」
 「あなたは水神を好んで、わたしをお嫌いなさるが、
  わたしとても神になれないことはありません」
妻は河に投身して死んだ。
それから七日目の夜に、彼女は夫の夢にあらわれた。
 「あなたは神がお好きだから、わたしも神になりました」
伯玉は眼が醒めて覚った。妻は自分を河へ連れ込もうとするのである。彼は注意して、その一生を終るまで水を渡らなかった。
以来その河を妬婦津といい、ここを渡る女はみな衣裳をつくろわず、化粧を剥がして渡るのである。美服美粧して渡るときは、たちまちに風波が起った。ただし醜い女は粧飾して渡っても、神が妬まないと見えて無事であった。
そこで、この河を渡るとき、風波の難に逢わない者は醜婦であるということになるので、いかなる醜婦もわざと衣服や化粧を壊して渡るのもおかしい。
斉の人の諺に、こんなことがある。
「よい嫁を貰おうと思ったら、妬婦津の渡し場に立っていろ。渡る女のよいか醜いかは自然にわかる」

      [岡本綺堂:「中国怪奇小説集 酉陽雑爼」"妬婦津"]

これは、中華帝国の社会問題を取り上げるべく収載された話である。

実は、嫉妬深いこと自体は驚くべきことではなく、鮮卑系王朝だった魏では、嫁ぐ娘に"[=嫉妬]"たれと徹底的に教え込むほどだったからである。
しかし、それは、一夫一婦制を貫こうとの強い意志が働いていたから。晉令のように諸王置妾八人の社会とは違うのである。
---婦人多幸,生逢今世,舉朝略是無妾,天下殆皆一妻。---父母嫁女,則教之以;姑姉逢迎,必相勸以忌。持制夫為婦コ,以能妬為女工。--- 「魏書卷十八列傳 太武五王」

要するに、中途半端な折衷文化が生まれてしまったのである。従って、巨大中華帝国を実現した隋の文帝の独孤皇后のような女性が次々と登場することになる。
後宮で下手に帝のご寵愛でも受ければ命が保証されないのである。なぶりものにするような虐殺だったのかは触れてはいないが。もともと"上"は"下"の命をどう扱おうが勝手だからたいして驚くような事件ではない。
后頗仁愛,毎聞大理決囚,未嘗不流涕。然性尤妬忌,後宮莫敢進御。
尉遲迥女孫有美色,先在宮中。上於仁壽宮見而ス之,因此得幸。后伺上聽朝,陰殺之。上由是大怒,單騎從苑中而出,不由徑路,入山谷間二十餘里。高、楊素等追及上,扣馬苦諫。上太息曰:「吾貴為天子,而不得自由!」高曰:「陛下豈以一婦人而輕天下!」上意少解,駐馬良久,中夜方始還宮。
 「隋書卷三十六 列傳第一 后妃」

この問題は小さなことではない。虞通之は宋 明帝の命で大妒忌譚を収集し「妒記」を撰した位なのだから。

マ、普通に考えれば、一種の社会的現象とは言えるのだが。
このようなトラブルを防止し、臭いモノにはただただ蓋で、ともかく社会的安定第一の儒教が下火になってしまえばこうなるという見本。血族維持とその面子維持のためならどんなことでもする宗教だから当然の結果といえよう。
要するに、武力による独裁に緩みが生まれて社会が不安定化したため、抑圧されていた個人の"我"が、中華帝国的様相で表にでてきたに過ぎまい。

さて、この「酉陽雑俎」所収の妬婦話だが、「源平盛衰記 剣巻」に宇治の橋姫の話として取り入れられている。

公卿の娘が、妬ましい女に取り付いて殺してやりたいと思い詰め、鬼にしてくれと願掛け。お告げがあって実現し、宇治川にて入水し生きながら鬼と化す。それが、宇治の橋姫、と。@j-texts・・・
嵯峨天皇の御宇に、或る公卿の娘、余りに嫉妬深うして、貴船の社に詣でて七日籠りて申す様、「帰命頂礼貴船大明神、願はくは七日籠もりたる験には、我を生きながら鬼神に成してたび給へ。妬しと思ひつる女取り殺さん」とぞ祈りける。明神、哀れとや覚しけん、「誠に申す所不便なり。実に鬼になりたくば、姿を改めて宇治の河瀬に行きて三七日漬れ」と示現あり。女房悦びて都に帰り、人なき処にたて籠りて、長なる髪をば五つに分け五つの角にぞ造りける。顔には朱を指し、身には丹を塗り、鉄輪を戴きて三つの足には松を燃やし、続松を拵へて両方に火を付けて口にくはへ、夜更け人定りて後、大和大路へ走り出で、南を指して行きければ、頭より五つの火燃え上り、眉太く、鉄ぐろにて、面赤く身も赤ければ、さながら鬼形に異ならずこれを見る人肝魂を失ひ、倒れ臥し、死なずといふ事なかりけり。斯の如くして宇治の河瀬に行きて、三七日漬りければ、貴船の社の計らひにて、生きながら鬼となりぬ。宇治の橋姫とはこれなるべし。

宇治川はそんな話に会う地だったのであろう。宇治拾帖の冒頭、浮舟は恋の悩みで入水自殺するが、横川の僧都に助けられるのだから。
これだけでも、源氏物語の世界は、中華帝国風土には全く馴染まないことがよくわかる。

この話は、中国小説翻案が主体とされる仮名草子、浅井了意:「伽婢子」@1666年"妬婦水神となる"[巻拾の二]に引き継がれている。さらに豊富化された形で。
宇治の岡谷式部の女房が嫉妬深く、源氏物語を用いてそれを諭すと立腹。宇治川に飛び込んでしまう。死んで七日目の夜の夢に出没。橋を渡って縁結びはさせない、と。
もちろん、以後、ここを渡ると離縁になるとか、美貌の女性が渡ると川が荒れることになる訳だ。
言うまでもないが、不器量だとなにも起きない。

(参考邦訳) 段成式[今村与志雄 訳]:「酉陽雑俎」東洋文庫/平凡社 1980・・・訳と註のみで、原漢文は非掲載.

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