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■■■ 「酉陽雑俎」の面白さ 2016.7.9 ■■■

湖南の蛇退治

道教の蛇話をしたので、その続きとして、今度は仏教版。[→「道教の対蛇施策」]

長壽寺僧誓言他時在衡山,
村人為毒蛇所噬,須臾而死,發解腫起尺余。
其子曰:
 “老若在,何慮!”
遂迎至。
乃以灰圍其屍,開四門,先曰:
 “若從足入,則不救矣。”
遂踏歩握固,久而蛇不至。
大怒,乃取飯數升,搗蛇形詛之,忽蠕動出門。
有頃,飯蛇引一蛇從死者頭入,徑吸其瘡,屍漸低。
蛇皰縮而死,村人乃活。
 [卷五 怪術]
長寿寺の僧侶が衡山にいた時の話。
村人、毒蛇に噛まれ死亡。頭髪解け、1尺余り腫れ上がる。
 :
僧、数升の飯を取って蛇形に搗きあげて、呪文をかけた。
すると、くねくね動き門外へ出て行った。
そのうち、その飯蛇が一匹の蛇を連れて来て、死んだ村人の頭の中に入った。
その瘡を吸ったところ、屍はしばらくして低調に。
その後、蛇は縮んで死んでしまい、村人は活き返った。


長壽寺とは洛陽嘉善坊(南市西南端)にあり、天竺の訳経僧菩提流支[n.a.-727年]がいたらしい。
長壽元年。武后稱齒生髮變。大赦改元。

但し、長壽寺と言えば、華南南陽にある香嚴寺を指すことも少なくないようだ。
玄宗に厚遇され、粛宗と代宗を得度させた、国師慧忠禪師[675-775年]が住寺した時の名称である。
成式は、この僧については一言も語らずである。
思うに、高踏的すぎると見なしたのではないか。
一例をあげれば、・・・
肅宗皇帝問忠國師:「百年後所須何物。」
國師云:「與老僧作箇無縫塔。」
帝曰:「請師塔樣。」
國師良久云:「會麼。」
帝云:「不會。」
國師云:「吾有付法弟子耽源。却諳此事。請詔問之。」
國師遷化後、帝詔耽源。
問:「此意如何。」
源云:「湘之南潭之北。」
 「佛果圓悟禪師碧巖録第十八則」

弟子たる肅宗とは、全くコミュニケーションがとれていないことが歴然としている。
"墓など、どうでもよい"と、直截的に言えないにしても、機智をきかせればもう少しまともな会話になった筈では。
膨大な量の丸暗記と重箱の隅をつつくような比喩合戦の会話に明け暮れる上流階級の文化に対するアンチテーゼの意義は大きいにしても度が過ぎるのでは。
中華帝国の実態と余りにかけ離れた頭脳プレーに陥っていると言わざるを得まい。

さて、衡山だが、こちらは、湖南衡陽。火を使い始めた祝融の地とされ、炎帝神農氏が神鞭で朱雀を打ち落としたとも。当然ながら、道佛の一大聖地。
ただ、蛇の話なら、北岳になりそうなもの。
しかしながら、蛇信仰が残存している地域らしい。
後代ではあるが、瞿佑[1341-1427年]:「剪燈新話第三巻第二話永州野廟記」から、そんな雰囲気が読み取れるからだ。・・・
湖南永州[舜帝陵ありとされる地域]に道教の古廟ありで話が始まる。旅の学士が通りかかり、供物をあげなかったことで突然武者に襲われる。「玉枢経」を念じ、どうにか退散させ逃れることができた。そして、所用を済ませ、衡山の道観を参拝。そこで、この件を訴える。---すると、突然、連行され裁判沙汰に。道士風の老人も引っ張られて来るが、古廟が大蛇[妖怪]に乗っ取られているのでお助けを、と訴える。そこで、長官は鬼兵を派遣し、白蛇の首を取ってこさせる。---それは実は夢だった。覚めてから、出発し、永州の廟にさしかかると、そこには何もなかった。尋ねると、落雷で消失と。しかも、白大蛇を初めとして、そこらじゅう蛇の死体だらけだったという。---

考えてみれば、公案も難しいが、「酉陽雑俎」も同じようなものかも。
ちなみに、小生、以下の慧忠禪師の話は好みである。創造的な緊張感が張りつめていそうなので。但し、一般的解釈を知らないので、それを聞かされると違った印象を持つことになるかも。
國師三喚侍者。
  侍者三應。
國師云。
 將謂吾辜負汝。
 元來卻是汝辜負吾。

[宋 無門慧開宗紹:「禪宗無門關第十七則 国師三喚」]

要するに、素人にとっては、ワッハッハもの。成式といい勝負。

(参考邦訳) 段成式[今村与志雄 訳]:「酉陽雑俎」東洋文庫/平凡社 1980・・・訳と註のみで、原漢文は非掲載.

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