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■■■ 「酉陽雑俎」の面白さ 2016.7.12 ■■■

葬儀の違い

鳥葬の起源はゾロアスター教だと思われる。"天葬"ということでの鳥葬である。一方、拝火教という名称で呼ばれるように、聖なる火での葬儀は禁忌となる。
遺骸を砕いて塔や岩山の上に安置しハゲワシに食べてもらうシーンは現代人ならギョッとなるが、魂が抜けた後の身体に意味があると考えていないなら、驚くような風習ではない。魂が遺骸に戻ってくる可能性を信じて、遺骸にあくまでもこだわる信仰者だと、直視し難いだけのこと。

これは一例にすぎぬが、葬儀作法には信仰基盤に由来する様式が含まれており、口先でどう言おうと、じっくり考えれば、どのような体質の社会かが見えてくるもの。
成式が「卷十三 屍」としてまとめた理由の一つがココにあると見てもよいのでは。言うまでもないが、恣意的な解釈は一切つけていない。
"釈尊ほど、葬儀に関心を示すなと言いきった聖人はいないように思うが、その言葉に従う人はいないのが現実。ここらを「酉陽雑俎」がどう扱っているかを眺めると、成式のセンスもわかってくるだろう。"ということでまとめたが、より本質的なところも考えておきたい。 [→]

と言えば、おわかりだと思うが、道教の風土では、土葬が基本であり、仙人だと遺骸が突然消えてしまうという話になる。
ところが、釈尊の葬儀は火葬なのだ。
しかも、宗派の継承者が遺骸への礼を済ませてから荼毘にふすという"喪主"原則が貫かれているのも注目すべき点と言えよう。
その上、遺骨・遺骨は聖なるものとして信仰対象と見なされ、分配騒動もで発生したのである。

常識的なインド的葬儀を考えると、およそかけ離れた式次第。
どうして、ガンジス河での水葬にしないのか。たとえ、火葬であっても骨灰は河川に流すものではないかと思うが。

現代にも残る有名な鳥葬地区は、インドの極く一部に存在するゾロアスター教徒地区以外に、チベットがあげられる。辺境的地域が多く、そこでは今もって続いているとされている。もちろん、チベット仏教の地である。
ただ、正確に言えば、鳥葬を正式としている訳ではないようだ。階層毎に決められたルールに従っていると考えた方がよさそう。出典は定かでないが、どうもこんな感じのようだ。・・・
 活仏は、半ミイラ化させる霊塔葬。
 高僧は、火葬の上、骨擦にして仏塔収容。
 僧侶・高官は、火葬の上、山河にて散骨灰。
 一般人は、鳥葬。
 ・・・ハゲ鷲は神鳥とされる。
 鳥葬できない谷の地域住民は、魚葬(水葬)。
 ・・・その地では魚食は禁忌となる。
 強盗殺人者・自殺者は、土葬。
 特定の伝染病罹患死亡者は、除霊の上、水葬。
 幼児は、河川合流地の樹木の又にかける樹木葬

遺骸処理より、その前に魂を天に導いてもらうことの方に重きがありそう。当然ながら、その役目は僧侶が担うことになる。
その後は、鳥、獣、魚に遺骸を食べてもらい供養になれば有り難いということだろう。中華帝国では、動物は第一義的には食の対象であるから、ほとんど成り立たぬ発想ではなかろうか。

実際、玄奘:「大唐西域記」卷第二 "病死"でも、火葬以外に水葬と野葬が記載されており、そのような考え方は定着していたようだ。
送終殯葬,其儀有三:
 一曰火葬,積薪焚燎;
 二曰水葬,沈流飄散;
 三曰野葬,棄林飼獸。


火葬はいかにもお金がかかる訳で、王族が好みそうな葬儀だが、得度すると、そのような関心は薄れてしまうようである。
是如來昔修菩薩行,號屍迦王,
(唐言與。舊曰屍王,訛。)
為求佛果,於此割身,從鷹代鴿。
 [玄奘:「大唐西域記」卷第三 "烏仗那國 屍迦王本生故事"]

ヒンドゥー教も火葬第一に映るが、その思想は、現生への執着を断ち切ってもらうためのもの。その上で、河川に遺骨・遺灰を流すことで、現生での咎を消し去り、罪から解放されることを願うのであろう。
墓を作ることは、それに逆行する行為そのもの。
ただ、一般大衆とは異なるとされる"聖なる"バラモン階級にとってはどうでもよいことだろう。

たった一つだが、「卷十三 屍」に、葬儀の本質を考えさせようと目論んだと思われるお話がある。・・・

處士鄭賓於言,嘗客河北,有村正妻新死,未
日暮,其兒女忽覺有樂聲漸近,至庭宇,屍已動矣。
及入房,如在梁棟間,屍遂起舞。
樂聲復出,屍倒,旋出門,隨樂聲而去。
其家驚懼,時月K,亦不敢尋逐。
一更,村正方歸,知之,乃折一桑枝如臂,被酒大罵尋之。
入墓林約五六裏,復聞樂聲在一柏林上。
及近樹,樹下有火然,屍方舞矣。
村正舉杖舉之,屍倒,樂聲亦住,遂負屍而返。

河北のとある村の長の正妻が亡くなった話。
納棺前のこと。
日が暮れ、息子と娘が、音楽が流れて来たことに気付く。
それが近づいて庭まで来ると、屍が動き始めた。
さらに房の中に入り、梁と棟の間に。
すると、屍は、ついに起き上がって舞い始めた。
音楽の声が出て行くと屍は倒れたが、
 楽声に従って付いて行ってしまった。
家の者達驚愕。
 月は暗いし、敢えて追跡することはしなかった。
夜が更けてから、長が帰宅し、これを知る。
早速、腕くらいある桑の枝を一つ折り、
 酒を煽り、
 大声で罵声を浴びせた。
墓林に5〜6里入ってみると、
 樹林のなか、一本の柏の木から楽声が流れていた。
その樹に近づくと、木の下に火がメラメラと燃えており、
 屍が舞っていた。
長は、杖をふるってこれを叩きのめした。
 屍は舞を止め、楽声も終わった。
そこで、屍を引き摺って返したのである。


納棺が重要なことがよくわかる。
鳥葬・魚葬・獣葬には、棺桶は不要だが、中華帝国に於いてはそれは無理。遺骸をそのように扱うことはご法度なのだ。お棺で損傷なきよう防御すると同時に、遺骸を利用されないよう、閉じ込める必要ありとされていそう。
棺桶を用いるのは、それだけでない。遺品や呪物等を一緒に葬る意義も大きそう。死後は現生の延長線上にあると考えている訳で、古代インドやチベットのように、現生から断ち切って、確実に天に上って欲しいという思考パターンとは相いれない。死者を含めた血族主義なので、そこを変えるのは無理。
それに、土葬や墓への拘りがあるという点でも、インド・チベットとの違いは甚だしいものがあろう。土葬を忌み嫌う社会と、土葬、即ち墓を重視する社会の間に横たわる溝はとてつもなく深い。

(参考邦訳) 段成式[今村与志雄 訳]:「酉陽雑俎 2」東洋文庫/平凡社 1980・・・訳と註のみで、原漢文は非掲載.

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