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■■■ 「酉陽雑俎」の面白さ 2016.8.4 ■■■

許旌陽的道教思想

「道教の対蛇施策」[→]で、東晉の道士だが、いかにも儒教密着体質に映る許遜/旌陽[239-374年]の話をした。もちろん、広く知られていた道士である。
視点を変えて、その再録といこう。

許の人気のほどは、こんな記述に現れている。・・・
郡大疫,多死。君出神方療之,皆愈而復常。自是蜀人祠而祝之。東南之民,猶稱之曰許旌陽也。 [「神仙傳」]

ところが、ずっと後代の、清王朝の官僚 林則徐[1785-1850年]も敬愛していたらしい。則徐が誦読を習いとしていた以下の「十無益」はそこから来ていると考えられているそうだ。・・・
 一 父母不孝,奉神無益。 二 兄弟不和,交友無益。
 三 存心不善,風水無益。 四 行止不端,讀書無益。
 五 心高氣傲,博學無益。 六 做事乖張,聰明無益。
 七 時運不濟,妄求無益。 八 妄取人財,布施無益。
 九 不惜元氣,醫藥無益。 十 淫惡肆欲,陰無益。

そんな思想を振りまいていたとすれば、成式としては、取り上げざるを得まい。

さて、その収載話のガイストはこんなところ。・・・
晉許旌陽,呉猛弟子也。
當時江東多蛇禍,猛將除之,選徒百余人。
至高安,令具炭百斤,乃度尺而斷之,置諸壇上。
一夕,悉化為玉女,惑其徒。至曉,呉猛悉命弟子,無不涅其衣者,唯許君獨無,乃與許至遼江。
及遇巨蛇,
呉年衰,力不能制,許遂禹歩敕劍登其首,斬之。
 [卷二 玉格]
江東で蛇禍が多かった時代のこと。
晉の許旌陽の師である呉猛が成敗に立ち上がる。
先ずは、率いている教派集団の徒弟から、百余人を選抜。
そして、江西高安に引っ張って来た。
炭百斤を備えよと命じ、計尺し切断したものを、壇上に設置。
夕刻を過ぎると、その炭は悉く玉女と化し、
やって来た徒弟達を誘惑した。
暁の刻が訪れると、呉猛は弟子に命じた。
しかし、彼らの衣で、汚(涅)れていないモノはなかった。
ところが、唯一人、許旌陽君だけはそれが無かった。
と言うことで、呉猛は許と共に遼江に出かける。
そこで、巨大な蛇に遭遇。
呉は年老いて衰えており、とても制圧する力なし。
許が禹歩で術をかけ、勅剣。
巨蛇の首に登り、斬りすてた。


一般的には、玉女からの誘惑に目もくれずの、立派な道士だったと解釈することになるが、そんな話をわざわざ書くとも思えない。
と言って、玉女の正体は師が作り出した妄想であるとするなら、道士としては、それを打ち破る手を打つべきであろう。そんなこともできないのなら、術を駆使して蛇神を退治するなど無理というもの。
さすれば、玉女の誘惑は受け入れたが、その内実を知っており、炭がつかぬように対処したと考えるのが自然。
師匠からしてみれば、我の上を行く力ありということになろう。

この話が不思議なのは、老人になると術の力が失せてくるとされている点。

仙人は普通は超高齢者。だからこそ、鍛え上げた術を使って奇跡を起こすことができるというのが普通。
ところが、ここでは、そんなイメージは全く感じられない。ダンス的な禹歩の呪術から始まり、巨大な蛇の首に跳びあがって、力まかせに首を剣で切断したからだ。そこには、エネルギッシュな道士像しか見当たらない。
と言うことは、性的衝動も抑圧せずかも。なにせ、蛇話なのだから。
一方、師はすでに枯れた状態として描かれている。

一般的には、こうした蛇退治の核は禹歩だから、老齢でもかまわない気はするが。
典型例をご参考にあげておこう。・・・
武功大夫成俊建康屯駐中軍偏校也善禁呪之術尤工治蛇紹興二十三年本軍于南門外四望亭晩數有蛇自竹叢出其長三尺面大如杵生四足遍身有毛作聲如豬行趨甚疾為逐人呑噬之勢衆皆驚擾不知所為適有馬槽在側急取覆之而白統制官遣呼俊俊至已能言其状且云是名豬豚蛇齧人立死即歩布氣禁之少頃令啓槽則已僵縮不能動再覆之仰吸日光三吹槽上及啓視化為凝血矣又排彎山有異蟒色深青長可二丈積為人害居民共邀俊施術俊曰在吾法不宜率爾盍具状以來既得状書章奏天詰旦詣穴口為壇被髮跣足衣道士服向空叱神将曰速斯須蛇不出繼遣兩将如是者三四反蛇猛從穴内奮迅奔壇若將欲者俊大聲訶之曰業畜那得無禮取所着汗衫中分裂其裾蛇擘為兩此患遂絶民家小兒因行草際遭螫毒徹心腑幾于不救俊往療之問兒曰汝誤踏踐之以致齧耶将自行其傍而然耶曰初未嘗觸之不覺咬我俊曰我亦久知之此無故傷人命不可恕乃除地丈許插小竹片為作法呼蛇至者如積令之曰作過者留下否則退羣蛇以次相引而去各適所在獨一小蛇色如土伏傍俊召判官檢法曰蛇無故傷人當何罪兒家聚觀者皆莫見久之又曰依法蛇自以首觸劒死焉俊之技如此而無所求於人醫士劉大用欲學其術俊曰此非所但慮持之不謹或干犯法律将自貽禍乃止景陳弟云郷里亦曾有豬豚蛇以身而短不能蜿蜒故惟直前衝人遭之者無活理盖蝮類也 [宋 洪邁 撰:「欽定四庫全書」 夷堅志戊卷三 成俊治蛇]
建康駐屯の将校、武功大夫成俊の話。
成俊は呪術を駆使した蛇退治が得意。
紹興二十三年、軍が南門外で訓練中、竹薮から蛇出現。
長さ三尺、杵位の太さ。四本の脚があり、全身毛だらけ。
豚の鳴き声をあげ、動き回った。人を追跡し呑み込まんばかり。
皆、驚き騒擾状態。制することできず。飼馬用の槽を被せてしのいだ。そして、成俊を緊急ということで呼び寄せた。
成俊、その蛇の形状を言い当て、これは"猪豚蛇"だ、と。
噛まれると即死、とも。
そして、禹歩。
さらに、槽に息を吹きかけ、禁呪。
槽を開けると、蛇は縮退。動かず。
槽を被せ、日光を吸わせ、槽に三度息を吹きかけた。
再度、開けると、蛇は血の塊と化していた。


最後に、禹歩について書いておこう。

夏王朝の始祖"禹"は身を粉にして全国を動き回り治水に励んだため、足に障害が出てしまい、不自然な独特の歩き方になったとされる。言うまでもなく、儒教的発想だと、崇敬すべき偉大な天子の所業とみなされる。
道教もそれに乗ったのであろう。

呪術の蛇退治と天子の歩行の仕草を強引に結びつけた訳だ。そんなことが簡単にできた理由は、"禹"という文字にありそう。
"禹=虫+兀"ということで、雌雄の蛇が合体した姿を意味しており、2つの龍を自在に使う天子と考えたいようだが、これだと、かなり強引と言わざるを得まい。
"禹"の父が"鯀"(大魚)であるところから考えると、この文字は、黄河流域棲息の大山椒魚の象形と考えた方がよいように思う。
そう見なすと、すっきりとした解釈が成り立つからだ。

大山椒魚トーテム部族が、この神を崇拝してはいたが、大魚トーテム部族同様に、(せいぜいが堤防建造程度の発想でしかないので)、洪水は一向に収まらなかった。そこで、"禹"は、印度渡来の蛇神と習合することにして、(大河の力に逆らわない治水技術を用い)、上流から下流まで流域を広く点検し、統合的な治水対策を施した。この結果、ようやくにして水害激減。それからは、両神の習合としての龍信仰に、という見方。
要するに、蛇だらけの山にいくら入っても、死ぬことがなかったから、"禹歩"こそ蛇害防止の呪術に他ならぬという理屈。天子"禹"は、道教の呪術の祖でもあるのですゾ、となる訳だ。

(参考邦訳) 段成式[今村与志雄 訳]:「酉陽雑俎」東洋文庫/平凡社 1980・・・訳と註のみで、原漢文は非掲載.

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