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■■■ 「酉陽雑俎」の面白さ 2016.8.6 ■■■

墳墓盗掘

「巻十三 屍」に、古墳墓を開けたら褌50枚というワッハッハ話が収載されている。[→]
流石に、そんな話を書いていると言われるのも嫌なのか、この篇の最後は以下の真面目な話で締めくくられている。

近有盜,發蜀先主墓。
墓穴,盜數人齊見兩人張燈對棋,侍衛十余。
盜驚懼拜謝,一人顧曰:
 “爾飲乎?”
乃各飲以一杯,兼乞與玉腰帶數條,命速出。盜至外,口已漆矣。
帶乃巨蛇也。視其穴,已如舊矣。

近頃の話だが、蜀の先主の墓が荒らされた。
盗賊数人が墓穴に入ると、内では二人の男が燈火の下で碁の勝負中。
さらに、侍衛の兵士が十余人。
盗賊驚愕して平謝り。
すると、一人が見やって、
 「一杯やらんか。」と。
それぞれに一杯づつ飲ませてくれた上に、数条の玉飾り腰帯までくれた。
そこで、命からがらと、急いで脱出。
盗賊達が外に出てみると、
口は漆で接着されたかのよう。
もらった帯は巨大な蛇だった。


蜀の先主とは、誰が考えても劉備/玄徳以外に考えられない。一族の血統は途絶えているようだから、おそらく、村人達が大事に護っていた筈だし、墓守もいた筈。
しかし、墓泥棒はプロであり、副葬品はすべて持ち去られてしまったのであろう。
従って、この話は、墓内部の状況を決して口外するなという、地元民の心情話であって、"怪"ということではないような気がする。

ただ、現実には、劉備の墓は、成都に存在している。
通称"武侯祠"で、観光地化して久しい。と言うか、すでに唐代、この御陵を大切に護るべしとの不文律ができていたようだ。壮大さを誇る皇帝陵的な雰囲気がなかったので容認されたのであろう。
それ以前に関しても、ここにある恵陵(劉玄徳墓)は盗掘無しとされている。
そうだとすれば、盗掘された最初の墓から移された遺骸がここに葬られていると考えるのが自然である。と言っても、盗掘された方の墓の存在は知られていない。ただ、劉備像を祀っている古龍寺近辺の、眉山の牧馬郷蓮花村の"彭山墓"を比定する人はいるようだ。伝承だけで傍証さえも全く無いのだが。

「巻十三 屍」には、盗掘から逃れるために王の墓がどのような仕掛けがこらされているかも詳述されている。随分とオーバーであるが、その手の話は横行していて不思議ではなかろう。と言うことで、小生は、怪異譚と見なさない。
岡本綺堂訳「古塚の怪異」を引いておこう。[「中国怪奇小説集 酉陽雑爼(唐)」@青空文庫]・・・

劉晏判官李,莊在高陵,莊客懸欠租課,積五六年。因官罷歸莊,方欲勘責,見倉庫盈羨,輸尚未畢。怪問,悉曰:
“某作端公莊客二三年矣,久為盜。近開一古冢,冢西去莊十裏,極高大,入松林二百歩方至墓。墓側有碑,斷倒草中,字磨滅不可讀。初,旁掘數十丈,遇一石門,固以鐵汁,累日洋糞沃之方開。開時箭出如雨,射殺數人。衆懼欲出,某審無他,必機關耳,乃令投石其中。毎投箭輒出,投十余石,箭不復發,因列炬而入。至開第二重門,有木人數十,張目運劍,又傷數人。衆以棒撃之,兵仗悉落。四壁各畫兵衛之像。南壁有大漆棺,懸以鐵索,其下金玉珠堆集。衆懼,未即掠之。棺兩角忽颯颯風起,有沙迸撲人面。須臾風甚,沙出如註,遂沒至膝,衆皆恐走。比出,門已塞矣。一人復為沙埋死,乃同地謝之,誓不發冢。”

唐の判官を勤めていた李という人は、高陵に庄園を持っていたが、その庄に寄留する一人の客がこういうことを懺悔した。
「わたくしはこの庄に足を留めてから二、三年になりますが、実はひそかに盗賊を働いていたのでございます」
もおどろいた。
「いや、飛んでもない男だ。今も相変らずそんな悪事を働いているのか」
「もう唯今は決して致しません。それだから正直に申し上げたのでございます。御承知の通り、大抵の盗賊は墓あらしをやります。わたくしもその墓荒しを思い立って、大勢の徒党を連れて、さきごろこの近所の古塚をあばきに出かけました。塚はこの庄から十里(六丁一里)ほどの西に在って、非常に高く、大きく築かれているのを見ると、よほど由緒のあるものに相違ありません。松林をはいって二百歩ほども進んでゆくと、その塚の前に出ました。生い茂った草のなかに大きい碑が倒れていましたが、その碑はもう磨滅していて、なんと彫ってあるのか判りませんでした。ともかくも五、六十丈ほども深く掘って行くと、一つの石門がありまして、その周囲まわりは鉄汁をもって厳重に鋳固めてありました」
「それをどうして開いた」
「人間の糞汁を熱く沸かして、幾日も根よく沃ぎかけていると、自然に鉄が溶けるのです。そうして、ようようのことで、その石門をあけると驚きました。内からは雨のように箭を射出して来て、たちまち五、六人を射倒されたので、みな恐れて引っ返そうとしましたが、わたくしは肯ききませんでした。ほかに機関[からくり]があるわけではないから、あらん限りの箭を射尽くさせてしまえば大丈夫だというので、こちらからも負けずに石を投げ込みました。内と外とで箭と石との戦いが暫く続いているうちに果たして敵の矢種は尽きてしまいました。
それから松明をつけて進み入ると、行く手に又もや第二の門があって、それは訳なく明きましたが、門の内には木で作った人が何十人も控えていて、それが一度に剣をふるったから堪りません。さきに立っていた五、六人はここで又斬り倒されました。こちらでも棒をもってむやみに叩き立てて、その剣をみな撃ち落した上で、あたりを見まわすと、四方の壁にも衛兵の像が描いてあって、南の壁の前に大きい漆うるし塗りの棺が鉄の鎖くさりにかかっていました。棺の下には金銀や宝玉のたぐいが山のように積んである。さあ見付けたぞとは言ったが、前に懲りているので、迂闊に近寄る者もなく、たがいに顔をみあわせていると、俄かに棺の両角から颯々という風が吹き出して、沙を激しく吹きつけて来ました。あっと言ううちに、風も沙もますます激しくなって、眼口を明けていられないどころか、地に積む沙が膝を埋めるほどに深くなって来たので、みな恐れて我れ勝がちに逃げ出しましたが、逃げおくれた一人は又もや沙のなかへ生け埋めにされました。
外へ逃げ出して見かえると、門は自然に閉じて、再びはいることは出来なくなっています。たといはいることが出来ても、とても二度と行く気にはなれないので、誰も彼も早々に引き揚げて来ました。その以来、わたくしどもは誓って墓荒しをしないことに決めました。あの時のことを考えると、今でも怖ろしくてなりません」


(参考邦訳) 段成式[今村与志雄 訳]:「酉陽雑俎」東洋文庫/平凡社 1980・・・訳と註のみで、原漢文は非掲載.

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