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■■■ 「酉陽雑俎」の面白さ 2016.8.12 ■■■

悪月

"五月病"は新暦。環境が変わって緊張していたところに、連休があり、そこで予想していた人生とは違う道に迷い込んだ気になってふさぐから発症するというのが一般的見方。俗人はいい加減な人生で満足しがちだから、そんな気分はわからず、五月晴れだというのに、どうしたのだろうかと、たいていはその苦しさを理解してあげられない。

一方、旧歴ではあるものの、同じように五月は病気蔓延の危険な時期とされていたようだ。
すでに、取り上げている「蛻の殻」の話[→]

視点を変えて、そこらを考えてみたい。・・・

俗諱五月上屋,
言五月人蛻,上屋見影,魂當去。
 [卷十一 廣知]
俗習では、五月に屋根に上がるのは禁忌。
"五月は人が脱け殻になる。"
     と言われている。
屋根に上がれば、
 影を見て
 魂が去ってしまう。


農暦[=旧暦]五月の俗称は"悪月"。
この時期、五毒(蛇,蝎子,蜈蚣,壁虎/守宮[含む一部の蜘蛛],蟾蜍/蛤蟆)に遭遇することが多くなるからだろう。実際、山東-山西-峡西では、毒害予防の祈祷が盛んだったようである。
しかも、この時期は、温度も湿度も上昇し"爛"的イメージそのもの。黴や細菌にやられ易い季節であるのは間違いない。腐敗防止策も手ぬるく、効く薬も無かった状態なのだから、当時の衛生状況を考えれば、大衆は死と隣り合わせだったと見てよかろう。その上、昼が長いせいで睡眠不足になりがちで、抵抗力も落ちる。
五月はなにがなんでも僻邪、との俗習が生まれるのは自然なこと。

ただ、中華帝国はそれを官僚的な統制習俗に昇華させる点が特筆モノ。
この月は農作業で忙しかったりもするから、一ヶ月丸々"斎"という訳にもいかぬという現実主義がもたげるから、特定日のみを忌日にするという算段。いかにも教派官僚が考えそうなやり方。結局、3連続日(5〜7)x3旬を九毒日と設定したのである。五月五日の端午節はその首日ということ。中日である、五月十六日は"是天地之気交合之日,男女不可同房"である。
マ、なにをもって、禁忌にするかは、どうでもよい話。中華帝国安定とそれを支える教派の繁栄が図れればよいのであって、関心はあくまでも"標準規格化"。見込みがありそうなら、なんであろうと取り込む訳で、それが上手くいかなければ棄てるだけ。
ともあれ、そこに教派が執り行う呪術的祭祀をからめることができればよいのである。

当然ながら、この俗習の発祥は古い。
一番の毒日である五月五日誕生の子は親にとって危険な存在との言い草が古くからあったようだし。
以下は、この節句が、社会安定のために、極めて重要なものであることを物語っていそうな話。インテリ必読書の史記の文章である。

初,田嬰有子四十餘人。
其賤妾有子名文,文以五月五日生。
嬰告其母曰:「勿舉也。」
 :
(俗説:五月五日生子,男害父,女害母。)
嬰曰:「五月子者,長與戸齊,將不利其父母。」

[司馬遷:「史記」卷七十五孟嘗君列傳第十五]

五月五日出産は禁忌ということ。言い換えれば、もしも産まれたら即刻殺してしまえ、と凄まじい。もともと、5月5日は、赤ん坊を殺す日だったかも知れないのである。その後、この禁忌風習は、えらく反撥を喰らったようで、標準化に失敗したのである。そうなれば、官僚機構の動きは素早く、そんな話をすぐに消しにかかる訳である。

それを踏まえて、「酉陽雜俎」の"蛻"の短文を読むと色々と見えてくる。
もちろん、今村注があってのことである。

と言うのは、別書ありということ。
もちろん、どのお話にも、校注には異同について細かく記載されているが、ここは内容についての註記があるのだ。
どういうことかは、以下をご覧になればわかるので、解釈はしない。

《酉陽雜俎》曰:
俗忌五月上屋。
言人五月蛻精神,
如上屋,即自見其形,魂魄則不安矣。

   [「太平御覽」卷二十二 時序部七]
俗習では、五月に屋根に上がるのは禁忌。
"五月には人の精神が脱皮をはたす。"
     と言われている。
屋根に上がれば、
 自ずからその形が見えてきて
 魂魄が不安定化するのである。


文言というか、一部抜け落ちとか、文字替わりという話とは訳が違う。ものの見方が全く異なることに気付かれるのでは。
小生は、成式が指摘したかっらのは、「太平御覽」で引用している方と見た。極めて、現代的な発想だからだ。冒頭の記載はいかにも、土着的な俗習に対する一般的に横行している説明を引いただけに映るからである。

注意していただきたいのは、ここで議論している問題は、"どの版の枕草子がよいか?"、という問題とはえらく違う点。文言や内容では、枕草子の版によってはえらい違いが見て取れる。しかし、それは、素人にとっては大きな問題ではない。
しかし、「酉陽雜俎」のこうした俗習にまつわる点についての記載の違いは、見逃さない方がよい。
というか、中華帝国の風土が見えてくるからだ。それは当の著者が思ってもみなかったことだろうが、後世への伝わり方に大きな差を生み出す「毒」を持った記述であったということ。

簡単に言えば、上記でおわかりのように、後世の編纂者がここらを手加減せざるを得なかったということ。
わかりにくいだろうから、この続きは別な例で。

(参考邦訳) 段成式[今村与志雄 訳]:「酉陽雑俎」東洋文庫/平凡社 1980・・・訳と註のみで、原漢文は非掲載.

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