表紙 目次 | ■■■ 「酉陽雑俎」の面白さ 2016.8.22 ■■■ 玉龍「科学技術と技能」[→]には入れなかった話をしておこう。【玉龍】 梁大同八年[542年], 戍主 楊光欣 獲 玉龍一枚, 長一尺二寸,高五寸,雕鏤精妙,不似人作。 腹中容鬥余,頸亦空曲。 置水中,令水滿,倒之,水從口出,水聲如琴瑟。 水盡乃止。 [卷十 物異] 玉龍と言えば、普通は、神龍を指す。 しかし、ここでは、その象形を彫り込んだ玉器の名称として。 そのような玉龍は、中原から東北にかけての遺跡から相当数が出土しているようで、5,000年以上前から使われていたのは間違いない。 ところが、成式が記載したのは彫り物玉器といっても随分と大きい代物。長さが一尺二寸で高さが五寸なのだから。頸は中空で曲げられるように作られている。しかも、口から腹に入れた水が噴き出るようなカラクリが組み込まれており、呪術的祭祀器というより、保有を誇るための精緻に作られた工芸品のようだ。多分、12穴の水笛となるよう設計されたもの。 にもかかわらず、見かけは人工的ではないとされているが、それは、高度な表面仕上げがなされていることを意味しているのだと思う。彫ったとはっきりわかる作品ではなかっただけのこと。 それほどの高度な作品が、朝廷の所有物ではないのである。 彫刻玉器は戦国期に急激に技術が進展したジャンルだから、ありえないことではないとはいえ驚き。 そうは言っても、所有者は一介の戍主。 このこと自体が"異"と言いたくなるほど。 なにせ、戍主の地位とはこんな感じだからだ。: 唐代、辺境を守る地方軍に戍兵と呼ばれる兵士がいたことでわかるように、要地に、城、鎮、戍といった軍事組織が編成されていた。もちろん城は巨大組織。鎮になると、数百人規模の軍で、司るのは将となる。戍はそれより小規模だから、戍主が率いるのは数十人の筈。従って、戍主と呼ばれる軍人は数百人にのぼるだろう。 単独に封じられただけなら、上層の軍事官僚とは言いかねる。多くの場合、併任ではないか。 もっとも、よくよく考えてみると、辺境であるが故、そのような工芸品を所有できたとも言えそう。 おそらく、このレベルの精巧な工芸品が大量に、西域へと輸出されていたのだろう。その一つが、なんらかの理由でこの戍主の手元に行き着いた訳だ。戦乱で明け暮れる地域でありながら、貿易ルートでもあったのだから、なにがあってもおかしくない。 (参考邦訳) 段成式[今村与志雄 訳]:「酉陽雑俎」東洋文庫/平凡社 1980・・・訳と註のみで、原漢文は非掲載. 「酉陽雑俎」の面白さの目次へ>>> トップ頁へ>>> (C) 2016 RandDManagement.com |