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■■■ 「酉陽雑俎」の面白さ 2016.9.1 ■■■

魚膾の恠

膾はもともとは薄切り或いは細切り生肉にタレをつけて食べる料理だったらしいが、そのうち材料が魚が主流化し、鱠ばかりになり、その食習慣も消えていったと考えられている。
刺身は和食とされるが、中華帝国になかった訳ではない。と言うか、洗練された包丁技を駆使した生魚料理があったのである。

唐代は、生魚食をこよなく愛する人がまだまだ沢山いた時代だったのかも知れない。もちろん、特権階級だけの話だが。
成式は仏教徒でもあるから、加熱調理しない生モノはそれほど好みではなかった可能性があり、生食マニアをお嫌いだったのかも知れぬ。
そんな雰囲気を感じさせるお話が収載されている。・・・

和州劉録事者,大歴[766-779年]中,罷官居和州旁縣。
食兼數人,尤能食膾,常言膾味未嘗果腹。
邑客乃網魚百余斤,會於野亭,觀其下箸。
初食膾數疊,忽似哽,咯出一骨珠子,大如K豆,乃置於茶甌中,以疊覆之。食未半,怪覆甌傾側,劉舉視之,向者骨珠已長數寸,如人状。
座客競觀之,隨視而長。頃刻長及人,遂劉,因歐流血。
良久,各散走。一循廳之西,一轉廳之左,及後門相觸,翕成一人,乃劉也,神已癡矣。
半日方能言,訪其所以,皆不省。自是惡膾。

  [卷十五 諾記下]
和州にいた劉録事の話。
大暦年間に官職を罷免されてしまい近隣の県に住んでいた。
食べる量が凄まじく、数人前。就中、好んで大食するのが膾。
なにせ、膾味なら、いくらでも腹に入れることができると、何時も言っていた。
その辺りに客人として住んでいたもの同士で、百斤余りの魚を網で獲っで、野外で食事会となった。
最初に、膾を数皿食べたが、忽然と、喉をつまらせてしまった。
そして、黒豆の大きさの骨の珠を一つ吐き出した。
そこで、その珠を茶碗の中に置いて、皿で蓋を被せた。
さらに食べ続け、半分も行かないうちのことだが、不思議なことに茶碗が横に傾いた。じっくり、その様子を見ていると、骨珠が数寸の長さへと成長し、人体のような形状になってきた。
座の人々は争うようにして、これを観察しに集まり、長くなって行くのを視ていると、やがで人間の大きさに及んだ。
遂に、それは劉に暴力を振るい、流血の事態に。
暫くすると、散り散りになって逃走。一つは庁舎の西へ、一つは左から回り込み、後門で両者は触れ合って、合体して一人に。
老人の態であったが、それは劉だった。まさに神がかり状態で茫然自失。
半日後、ようやくモノが言えるまでに回復したので、どんなことがあったのか尋ねてみたが、皆目わからず。
しかして、自然なことであるが、劉は膾を悪しきものと見なすようになった。


この妖怪は一体なんなのかということになるが、仏教的感覚で眺めれば、魚の精霊ということになろうか。
日本では、そんな感じに受け止められている。・・・
浅井了意:「伽婢子」巻之十一"魚膾の恠[大島源五郎が魚鱠の怪物之事]"に採用されているが、ここでは、化け物は太刀で腕首を切落されてしまい消えていく。ご当人は"其時の事を間に、露ばかりも覚えず"状態となるだけ。〆の言葉は、"これ魚の精現はれ集りて、此恠異ありけるにこそ。"である。

ちなみに、鱠が健康に悪影響を与える話はすでに取り上げた。
  名医の特徴【道士】
荊人道士王彦伯,天性善醫,尤別脈斷人生死壽夭,百不差一。裴胄尚書子,忽暴中病,衆醫拱手。或説彦伯,遽迎使視。脈之,良久曰:“都無疾。”乃煮散數味,入口而愈。裴問其状,彦伯曰:“中無腮鯉魚毒也。”其子因膾得病。裴初不信,乃膾鯉魚無腮者,令左右食之,其候悉同,始大驚異焉。 [卷七 醫]

大陸の魚食対象はもっぱら淡水魚。成育環境が悪いと寄生虫やウイルスに感染しているから、鱠食は罹患可能性が極めて高い。すでに唐代にして、その兆候が現れたということか。
その後、生食を毛嫌いするようになるのだが、妥当な判断と言えよう。

(引用) 「浅井了意の怪談_伽婢子」@古典文学電子テキスト検索β
(参考邦訳) 段成式[今村与志雄 訳]:「酉陽雑俎」東洋文庫/平凡社 1980・・・訳と註のみで、原漢文は非掲載.


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