表紙 目次 | ■■■ 「酉陽雑俎」の面白さ 2016.9.19 ■■■ 馬絵論議「画論」[→]では、「寺塔記」での絵画鑑賞話をとりあげた。内容的には、玄宗の宮廷画家 呉道玄の評価。そうなると、もう一人、抜かす訳にはいかぬ画家がいる。 韓幹/韓干[706-783年]である。 酒店の雇工だったが、王維が暇つぶしに地面に書いていた絵を見てその才を認め、学ぶことになったと伝えられる。宮廷画家 曹霸[704-770年]の弟子となったが、その後、陳閎の門下に。緻密な写生画を追及したくて、結局は、独自路線を歩んだらしい。そのために、そんな画風を帝から詰問された際に、"臣自有師,陛下内厩之馬,皆臣師也。”と語ったことが知られる。 ともあれ、馬の絵を沢山描いたようである。 → 「韓幹真跡 牧馬圖」@国立故宮博物院 そんな雰囲気を感じさせる話が収録されている。・・・ 建中[780-783年]初,有人牽馬訪馬醫,稱馬患腳,以二千求治。 其馬毛色骨相,馬醫未常見,笑曰: “君馬大似韓干所畫者,真馬中固無也。” 因請馬主繞市門一匝,馬醫隨之。忽值韓干, 干亦驚曰: “真是吾設色者。” 乃知隨意所匠,必冥會所肖也。 遂摩挲,馬若蹶,因損前足,干心異之。 至舍,視其所畫馬本,腳有一點K缺,方知是畫通靈矣。 馬醫所獲錢,用歴數主,乃成泥錢。 [續集卷二 支諾皋中] 杜甫は、やはり馬の絵をよく描いた、師匠だった曹霸の方をえらく評価している。それは自意識過剰的な態度に親近感を覚えたからかも。それが仇となったのか、理由はわからぬが、安史之乱以後に失職し、杜甫同様に貧窮な境遇に陥ったようだ。 韓幹の馬絵が生み出した画風は、後世に大きな影響を与えたのは間違いないから、「歴代名畫記」では、そんな杜甫の見方は薄っぺらな同情にすぎぬと見なしたようだ。・・・ 韓幹,大梁人。王右丞維見其畫,遂推獎之,官至太府寺丞。善寫貌人物, 【《龍朔功臣圖》、《姚崇及安祿山圖》、《玄宗試馬圖》、《寧王調馬打述圖》,傳於代】 尤工鞍馬。初師曹霸,後自獨擅。 杜甫贈霸《畫馬歌》曰: 「弟子韓幹早入室,亦能畫馬窮殊相。 幹唯畫肉不畫骨,忍使驊騮氣雕喪。」 彦遠以杜甫豈知畫者,徒以幹馬肥大遂有畫肉之誚。 古人畫馬有《八駿圖》,或雲史道碩之跡,或雲史秉之跡,皆එ3頸龍體,矢激電馳,非馬之状也。晉宋間顧陸之輩已稱改歩,周齊間董展之流亦雲變態,雖權奇滅沒,乃屈産蜀<馬冉>,尚翹舉之姿,乏安徐之體。至於毛色多騧騮騅駁,無他奇異。玄宗好大馬,禦廄至四十萬,遂有沛艾大馬。 命王毛仲為監牧使,燕公張説作《駉牧頌》。天下一通,西域大宛,歲有來獻。詔於北地,置群牧,筋骨行歩,久而方全,謂習之能,逸異並至,骨力追風,毛彩照地,不可名状,號木槽馬。聖人舒身安神,如據床榻,是知異於古馬也。時主好藝,韓君間生,遂命悉圖其駿,則有玉花駿、照夜白等。時岐、薛、寧、申王廄中皆有善馬,幹並圖之,遂為古今獨歩。祿山之亂,沛艾馬種遂絶。韓君端居亡事,忽有人詣焉。稱鬼使請馬一匹,韓君畫馬焚之。他日見鬼使乘馬來謝,其感神如此。弟子孔榮為上足,陳閎為永王府長史,善畫寫貌,工鞍馬,與韓同時,家蓄圖畫絶多。 【寫《安祿山圖》、《玄宗馬射圖》、《上黨十九宗圖》】 [張彦遠:「歴代名畫記」卷第九 唐朝上一百二十八人] 「丹青引贈曹将軍霸」 杜甫 将軍魏武之子孫,于今為庶為清門。英雄割据雖已矣,文彩風流犹尚存。 学書初学衛夫人,但恨無過王右軍。丹青不知老将至,富貴于我如浮云。 開元之中常引見,承恩数上南熏殿。凌烟功臣少顔色,将軍下筆開生面。 良相頭上進賢冠,猛将腰間大羽箭。褒公鄂公毛發動,英姿颯爽来酣戰。 先帝天馬玉花驄,画工如山貌不同。是日牽来赤墀下,迥立生長風。 詔謂将軍拂絹素,意匠惨澹経營中。斯須九重真龍出,一洗万古凡馬空。 玉花却在御榻上,榻上庭前屹相向。至尊含笑催賜金,圉人太仆皆惆悵。 弟子韓幹早入室,亦能画馬窮殊相。幹惟画肉不画骨,忍使驊騮氣凋喪。 将軍画善盖有神,必逢佳士亦写真。即今飄泊干戈際,屡貌尋常行路人。 途窮反遭俗眼白,世上未有如公貧。但看古来盛名下,終日坎壈纏其身。 (参考邦訳) 段成式[今村与志雄 訳]:「酉陽雑俎」東洋文庫/平凡社 1980・・・訳と註のみで、原漢文は非掲載. 「酉陽雑俎」の面白さの目次へ>>> トップ頁へ>>> (C) 2016 RandDManagement.com |