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■■■ 「酉陽雑俎」の面白さ 2016.10.30 ■■■

宦官政治創始者評

高力士[684-762年]という名称が教科書に登場してきた記憶はないが、事実上の宦官政治創始者として極めて有名である。

宦官には「官」と名称がついてはいるが、それまでは、後宮を含めた、帝室の家奴としての立場を守り、表だってその則を越えることはなかったようである。
ところが、高力士は、玄宗即位に武力的にも大いに力を発揮した上に、その後も玄宗の代理として忠実な姿勢を貫いたため、すべての政治局面で権勢をふるうことになった。独裁国によくある裏方の親分パターンと言えよう。

中華帝国では、文官と軍官が両輪となって独裁者を支える機構が骨格をなす。従って、帝室以外の管理監督業務すべてに、それを担当する官僚が決まっている筈だ。にもかかわらず、帝からの直接指示ということで、官をさしおいて、宦官の長が直接的に差配することが公然化していたようだ。(独裁者が機構を無視して、直接の取り巻きの統治を認めざるを得なくなるという、中華帝国の宿命的欠陥でもある。)
そんな直接的差配の場合、高力士に対する呼称はもっぱら"将軍"。玄宗即位を阻もうとの反乱鎮圧で偉大なる功があったから帝がそう呼んだのであろう。そうなれば、皆それに倣うしかない。・・・

安豐縣尉裴士淹孫也。
言玄宗嘗冬月召山人包超,令致雷聲。
超對曰:
 “來日及午有雷。”
遂令高力士監之。
一夕式作法,及明至巳矣,天無纖翳。力士懼之。超曰:
 “將軍視南山,當有K氣如盤矣。”
力士望之,如其言。
有頃風起,K氣彌漫,疾雷數聲。
玄宗又毎令隨哥舒西征,毎陣常得勝風。

  [卷八 雷]

勿論、"将軍"の他にも、呼び方はあったようだが、高力士とか、本名の馮元一を使う人はいなかったのである。
なかでも圧巻は、玄宗の皇太子李[後の粛宗]が"兄"と呼んでいたこと。
皇太子以外の一族は、致し方ないので、"翁"だったらしい。・・・

: 「高力士」
 呼二兄(柯古),
 呼阿翁(善繼),
 呼將軍(夢復),
 呼火老(柯古),
  :
  [續集卷六 寺塔記下]

成式(柯古)は、そんな呼称の総まとめとして、訳のわからぬ呼び名をつけた。
道教的には、気力が落ちていく様を現す"火老"という言葉をあてたのである。そんな呼び方が通用する筈がないから、宮廷の子女が「爺」と呼んでいたことにかけたのであろう。
自ら後宮に引き入れた楊貴妃を殺さざるを得なくなったことも知られており、安史の乱後は、急速に力を失って行った訳だから、こう呼んでさしつかえなかろうとの目論見だと思われる。
皆、ここでワッハッハの態。

ただ、権勢をふるうと言っても、中華帝国では当たり前の権謀術策の士というイメージは無い。
どちらかと言えば、謹厳実直な仕事人に徹していたと見られていたようだ。
男性ホルモン分泌を欠くというのに例外的に身の丈隆々ということもあって、宦官でありながら確かに"将軍"的な迫力を感じさせたので、政権安定が図れたということか。・・・

: 「高力士」
 :
五輪(善繼)。
初施戟(夢復),
常臥鹿床(柯古),
長六尺五寸(善繼),
  :
  [續集卷六 寺塔記下]

書いてある内容だが、長安に水車を5つ設置した施策を指しているようだ。
これで毎日、300石の小麦粉挽けるようになったから、食通の方々は大喜びであり、大恩人でもあったろう。
又、帝の信任を示す"戟"を家に示すことをさせることで、宦官地位向上を図ったことも、重要施策と言えよう。ほとんど金をかけない褒賞であり、そんな手で宦官政治を定着させたのだから、なかなかの切れ者。
ただ、それはある意味、帝室内での帝の些末な業務を代行し易くするための方策とも言える。なにせ、高力士の毎日とは仕事また仕事だったのだ。官僚達には真似できまい。なにせ、宮廷に床を持ち込み、家にも帰らず仕事一途というのだから。
その長身ぶりも見事だったし。

と言うことで、あくまでもご主人様の玄宗に、ただただ家奴として全身全霊を捧げる姿勢を貫いたのである。
従って、主の心の機微を見抜く力は抜群。玄宗にとっては、思ったことを即座にかなえてくれる最高の太鼓持ちであったろう。

 「撃春曲」 酉陽雜俎
唐明皇
[=玄宗]好羯鼓
云八音之領袖諸樂不可為比
嘗遇二月初詰旦巾櫛方畢時宿雨初晴景色
明麗小殿亭前
將吐睹而嘆曰
 對此景物豈可不與他判
左右相目將命備酒
獨力士遣取羯鼓
旋命之臨軒縱撃一曲
名春光好
神思自得及顧杏皆已𤼵指而笑之謂嬪内宦曰
 此一事不喚我作天公可乎
皆呼萬
  [宋 陳元:「時廣記」卷一@欽定四庫全書]

しかしながら、宦官のこうした出しゃばりを毛嫌いする人達も少なからず存在していたのは間違いない。
ポジション争いの毎日である文官には、ケーキのパイを宦官に奪われつつあったのだから、まさに辛い日々なのだから当然。そんな積もり積もっている不満を表に出したのが李白。
  「李白評」
政治志向ということで、家を離れて都に揚々と出て来たものの、帝の太鼓持ち的詩人としての職しかなかったのだ。その憤懣はいかばかりか。
少なくとも、特段の能力があるとは思えない宦官を嫌悪していたのは間違いあるまい。
その鬱憤ばらしに、帝の前で、高力士に靴を脱がせたのだから、政治音痴そのもの。もっとも、現代的解釈からすれば、文筆業者として、不平が溜まりに溜まっているインテリ層の支持を集めるための一大パフォーマンスだったとも言えるが。

それと、李白は道教にどっぷりと浸かっていたから、仏教徒である高力士とは端から馬が合わなかったということもあろう。

なにせ、高力士は長安の大邸宅を寄進して寺にしてしまうほどなのだ。750年のことである。・・・

翊善坊保壽寺,本高力士宅。
天寶九載,舍為寺。
初,鑄鐘成,力士設齋慶之,舉朝畢至,
  一撃百千,有規其意,連撃二十杵。
經藏閣規構危巧,二塔火珠受十余斛。
  [續集卷六 寺塔記下]

この話で、高力士にどれだけ力があったかがよくわかる。
鐘の鋳造完成の慶賀ということで斎食法会を開催したところ、朝廷の人々あげて参集というのだから。
しかも、皆々が鐘を打つから、その鐘の音、数百千。長安中に、高力士政権樹立と高々に宣言したようなもの。そんなこともあって、なかには、20回鐘を撞いた猛者まで登場。そんな行為は、高力士の意を慮ってのことと、皆認識していたのだからさらに凄い。

その寺も、高力士-李林甫の時代が終わると、隆盛は一気に失われていったようである。玄宗の下賜品たる張萱:「石橋図」が埃を被って所蔵倉に埋もれてしまうまでに。さっそく帝が、先帝愛好の絵ということで、発見を喜んで宮廷に展示させたようだ。・・・

河陽從事李涿,性好奇古,與僧智搗P,嘗至此寺,觀庫中舊物。忽於破甕中得物如被,幅裂,觸而塵起。涿徐視之,乃畫也。因以州縣圖三及三十獲之,令家人裝治,大十余幅。訪於常侍柳公權,方知張萱所畫《石橋圖》也。玄宗賜高,因留寺中,後為鬻畫人宗牧言於左軍,尋有小使領軍卒數十人至宅,宣敕取之,即日進入。先帝好古,見之大ス,命張於雲韶院。
   [續集卷六 寺塔記下]

この寺には、成都で菩薩が降臨した時を描いた図である「先天菩薩幀」も所蔵されていたのである。
玄宗はその絵を灌仏会の四月八日に高力士に下賜したとされる。・・・

寺有先天菩薩幀,本起成都妙積寺。開元初,有尼魏八師者,常念大悲咒。雙流縣百姓劉乙,名意兒,年十一,自欲事魏尼,尼遣之不去。常於奧室立禪,嘗白魏雲:“先天菩薩見身此地。”遂篩灰於庭,一夕有巨跡數尺,輪理成就。因謁畫工,隨意設色,悉不如意。有僧楊法成,自言能畫,意兒常合掌仰祝,然後指授之。以近十稔,工方畢。後塑先天菩薩凡二百四十二首,首如塔勢,分臂如意蔓。其榜子有一百四十二日鳥樹,一鳳四翅,水肚樹,所題深怪,不可詳悉。畫樣凡十五卷。柳七師者,崔寧之甥,分三卷,往上都流行。時魏奉古為長史,進之。後因四月八日,賜高力士。今成都者,是其次本。
  [續集卷六 寺塔記下]

それほどの力を有していた高力士だが、配下の宦官の讒言で流される。
その配流先では、都で普通に食されている野菜である薺[なずな]が見向きもされないので、詩を作って流行らしたとの伝が残っている。
そんな罪から放免はされたが、帝崩御を聞いて気落ちしたのか、都に戻る直前に死去とか。玄宗の陵に陪葬されたのである。・・・

: 「高力士」
 :
陪葬泰陵(夢復)。
詠薺(柯古),
 :
  [續集卷六 寺塔記下]

結局のところ、歴史的に高力士をどう評価すべきかは、意見がわかれるところであろう。

: 「高力士」
 :
齒成印(善繼),
上國下國(夢復),
夢鞭(柯古),
呂氏生髭(善繼)。
  [續集卷六 寺塔記下]

仏教的鎮護国家的に、齒印政治を行ったといえなくもない。
しかし、それは、辺境の異文化地域を仏教圏ということで、仲間扱いしてしまい、中華思想をベースにして武力で周辺諸国を抑えることを止めて、単なる文化的な上国と下国を一緒にしてしてしまっただけと見ることもできよう。
従って、玄宗の中華帝国は高力士の方針でついえたと言えなくもない。本人も、鞭打ちの刑に処されてもおかしくないかな、と思っているかも。
それにしても、これだけのことをしたのだ。しかも、それが宦官だったとは驚き。
もっとも、宦官でも、呂氏のように鬚が伸びてきたりするもの。
ハハハ。

(参考邦訳) 段成式[今村与志雄 訳]:「酉陽雑俎」東洋文庫/平凡社 1980・・・訳と註のみで、原漢文は非掲載.

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