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■■■ 「酉陽雑俎」の面白さ 2016.11.20 ■■■

碁の不適切用語

日本将棋連盟が報道機関に要望書を出したため、[@2001年]現在は「将棋倒し」という表現は消えつつあり、「人が折り重なって倒れ…」になっているそうである。「ドミノ倒し」にする訳にもいかんだろうから、致し方あるまい。

その程度で問題視されるのだから、囲碁の方は放送禁止用語だらけになりかねず、棋士もこまり果てているかも知れぬ。
将棋の方が戦争色が濃いのに、抽象化されている勝負事の割には、暴力語彙や差別語だらけだから。どこからが、不適切用語とされるのかわからぬが、眼関係など全滅だろう。攻める様子の言葉の多くも公序良俗に反すると判定されてもおかしくないし。
そんな状況で、感想戦[一般用語なら反省会か.]でどのように語り合っているのか、気になるところである。

代替用語をすべて勉強してからでないと、囲碁については語れない時代に突入しているのかも。

そんな時がいずれ到来と示唆する話が「酉陽雑俎」に収載されている。
   「一行禪師伝」【僧侶斬殺】@[續集卷四 貶誤]
こんなストーリーである。
 梁の武帝が法師を召した。
 臣下が法師参上を告げた時、碁打ちの最中。
 碁に夢中で、「殺せ」と口に出す。
 臣下は法師を斬殺。
 碁が終わり武帝が法師に「入れ」と命令。
 臣下は「御命令通り殺しました。」と。


この話を引用しているのか、古い仏教説話からなのかはわからぬが、ほとんど同じものが日本にも存在する。

「上人参り給ひぬ」と申しければ、
碁に切りて然るべき所有りけるを、
「切れ」と宣ひけるに、
此の上人の首を斬れとの宣旨と聞き成して、
即ち聖の首を打ち斬りぬ。
大王、夢にも知り給はで、
碁打ち果てて、
「其の上人、此方へ」と宣ふ。
「宣旨に任せて、斬りたり」と申す。

  [「曽我物語」巻二 奈良の勤操僧正の事]

或時其国の大王法会を行ふべき事有て
説戒の導師に此沙門をぞ請ぜられける。
沙門則勅命に随て鳳闕に参ぜらる。
帝折節碁を被遊ける砌へ、
伝奏参て、沙門参内の由を奏し申けるを、
遊しける碁に御心を入られて、是を聞食れず、
碁の手に付て、「截れ。」と仰られけるを、
伝奏聞誤りて、此沙門を刎との勅定ぞと心得て、
禁門の外に出し、則沙門の首を刎てけり。
帝碁をあそばしはてゝ、
沙門を御前へ召ければ、
典獄の官、「勅定に随て首を刎たり。」と申す。

  [「太平記」巻二 三人僧徒関東下向事]

"殺す"という用語に、はたして、適切な代替用語があるのだろうか、と心配してしまうが、どうも杞憂らしい。
粛々と転換が進んでいるようだから。
["囲碁の普及、理解のため分り易いことば・文字(俗字)あるいは外国語へ変換を行う事は必要でかつ重要である。すでに用いられている囲碁用語(翻訳語)は、俗語として認容するにしても、再検討すべきである。"]

マ、囲碁も将棋も、肉体を使う訳でもないのに、どういう訳か性的差別推進がまかり通る世界。にもかかわらず、真面目な顔をして、差別は止めようと語るのだから、なんともはや。
すでに、Puella αやAlphaGoの時代に入っているから、どうでもよい話ではあるが。

(参照) 松本忠義:「囲碁史における定説・通論 研究の基礎、方法論」大阪商業大学アミューズメント産業研究所紀要 (15), 269-305, 2013-06
(参考邦訳) 段成式[今村与志雄 訳]:「酉陽雑俎」東洋文庫/平凡社 1980・・・訳と註のみで、原漢文は非掲載.


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