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■■■ 「酉陽雑俎」の面白さ 2016.11.21 ■■■

仏舎利信仰の地で

「卷三 貝編」で取り上げている仏教話のうち、白眉とみなせそうなものをとりあげておこう。

ただ、知識を欠くと、そうは感ぜずに通り過ぎてしまう箇所。

それに、南と北の外交シーンなので焦点がぼけた印象をあたえるせいもある。ところが、それに対応するかの如く、どのような登場人物かが、別途解説されている。実に周到。
   「音楽鑑賞に於ける外交バトル」

ということで、多少の背景説明をつけておこう。

印度孔雀王朝第3代阿育王[アショカ王 B.C.304-B.C.232年]は、仏教で繁栄を築いたことで、尊崇の対象であるのはご存知の通り。
中国におけるその象徴が阿育王寺。阿育王が釋迦牟尼眞身の舎利を各地に分骨した場所を示している。つまり、本来的には普通名詞に近い寺名。だが、現実には、仏教庇護者を任じる、梁 武帝の額が掲げてある寺の固有名詞となっている。(他の地の仏舎利は盗まれ喪失し、寺も崩壊ということでは。)
建立は522年だが、西晋 武帝の代、282年創建と伝えられる。
(日本では、渡航に失敗した鑑真和尚が滞留したお寺とのイメージのお陰で、武帝にはあまり関心が払われないようだ。)

当時、梁の都 健康[=南京]には数百の寺院が立ち並んでいたという。
その宮苑[@皇城東北隅]は華林園[@現在の玄武区籠山]と名付けられ、そこには、もともと曾城観があった。武帝はその付属施設を改築し重層大型化したようで、上層を重雲殿と命名。行事用であり、そこで講を開始したのである。
所謂"士林の学"の開始。庭園の木々を眺めて遊び、雲で心を豊かにする嗜好といえよう。
大同元年[585年]正月,武帝幸華林園重雲殿,請四部衆自講《三慧般若經》:「一日,帝延至壽光殿説法,至夜方出」

言うまでもないが、北の洛陽にも膨大な数の寺院があったが、仏教に深く帰依した帝としては、武帝が最高峰と見てよいだろう。

そのような状況で、・・・。

魏使陸操至梁,梁王坐小輿,
使再拜,遣中書舍人殷Q宣旨勞問。
至重雲殿,引升殿。
梁主著菩薩衣,北面,太子已下皆菩薩衣,侍衛如法。
操西向以次立,其人悉西廂東面。
一道人贊禮,佛詞凡有三卷。
其贊第三卷中,稱為魏主、魏相高並南北二境士女。
禮佛訖,臺使其群臣倶再拜矣。


一方、同泰寺[=現在の鶏鳴寺]は皇城の北〜玄武湖南にあった道場が発祥。武帝は大通元年[527年]、これを大規模寺院化し、皇城側にも大通門を設置。(寺名の音は"通大"である。)そして、南朝四百八十寺之首に。
武帝は、この寺への出家舍身を数度に渡り繰り返したという。

尚、549年、皇城は侵攻され、武帝は餓死し、寺は毀損。

それを踏まえ、・・・。

魏李騫、崔至梁同泰寺,
主客王克、舍人賀季友及三僧迎門引接。
至浮圖中,佛旁有執板筆者。
僧謂騫曰:
 “此是屍頭,專記人罪。”
騫曰:
 “便是僧之董狐。”
復入二堂,佛前有銅,中燃燈。
曰:
 “可謂日月出矣,火不息。”


"屍頭"は書き留める役のようだが、正規の僧職名とは思えないし、通称とすれば余りに道教的。ここらが、この話の肝である。
要するに、教団内部で"戒"を徹底する仕組みがあると言えなくもないのである。
しかし、それが機能していたのかといえば、はなはだ疑問。

成式が僧侶の腐敗をあけっぴろげに記述していることでわかるように、多くの寺院は、税金逃れと、日々遊んでいられる生活を求める人々のコミュニティ作りの拠点に過ぎなかったとも言えるからだ。

仏教徒からみれば理想的な帝に映るだろうし、法会に民が何十万も集まったりすれば、感激するだろうが、所詮は仇花。出家思想からして、"家こそ命"の、"富貴と子孫繁栄"第一主義の社会に全く合わぬわけで。
中華帝国の社会の実像を直視すれば、そのような治世が持続性を欠くのは自明だからだ。

(参考邦訳) 段成式[今村与志雄 訳]:「酉陽雑俎」東洋文庫/平凡社 1980・・・訳と註のみで、原漢文は非掲載.

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