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■■■ 「酉陽雑俎」の面白さ 2016.12.3 ■■■

突厥の扱い

玄奘は629年秋に印度への巡礼の旅に出立。
(長安⇒蘭州⇒涼州[滞在]⇒瓜州@甘粛[滞在]⇒四烽⇒伊吾国⇒高昌国⇒無半城⇒篤進城⇒阿耆尼国⇒屈支国⇒跋禄迦国⇒<天山山脈峠越え>)
北側の突厥の支配域の南境を選んだことになる。(沙漠を隔てた南は吐藩。)

その突厥だが、モンゴル高原のチュルク(トルコ)系騎馬遊牧民の"可汗"国家。
突厥者,蓋匈奴之別種,---
狼遂逃于高昌國之北山。---
可汗恆處於都斤山,牙帳東開,蓋敬日之所出也。

  [周書 卷五十 列傳第四十二 異域下]

遊牧が経済基盤であるから、その支配地域は当然ながら広い。交易上不可欠であるから、オアシス都市国家群を支配下に収めたり、独立されたりの繰り返しだったと思われる。
素人の見方であるが、その中心地が玄奘ルートから離れた北部である筈はないが、定住型文化を軽蔑している種族であろうから、支配地であっても植民化は進まず、直接的な存在感は感じられなかったのかも。
ただ、鉄器製造についてはひとかたならぬ製造能力があったから、オアシス都市国家群にとってもなくてはならない存在であったようだ。
突厥
---阿史那以五百家奔茹茹,世居金山,工於鐵作。
金山状如兜,俗呼兜爲「突厥」,因以爲號。

  [「隋書」卷八十四 列傳第四十九 北狄]

しかし、その強味は、"可汗"の命令一つで、全遊牧民が騎馬兵士と化し、少数精鋭の常備軍に争うようにして駆けつけ、超大軍が編成され即進軍できる仕組み。
当然ながら、そんなことができる法的制度が完備していた訳で、独自の突厥文字も持っていたことが知られている。

玄奘も、その著作を読んだ成式も、そのあたりは十分理解していた筈。その軍事的影響力が甚大なことも百も承知。
にもかかわらず、あまり取り上げていないのである。

小生には、その理由としては、一つしか思い浮かばない。
唐の李朝にとって、突厥話にはタブーが存在したということ。

中原での戦乱で勝利するためには、軍備増強が鍵。ところが、兵士はいくらでもかき集めることができるが、馬の調達は簡単ではない。
歴史学者はどう考えているのか知らぬが、いかにして突厥と結びつくかで勝負がつく状況だったと見ることもできるのでは。
突厥は漢民族とちがって植民勢力ではないから、中原での足跡をたどることは難しかろうが、見返りが多いと見れば、中原に援軍を派兵していてもおかしくない。
禁出国令は、反政権勢力が結びつくことを防ぐ緊要な施策ということ。玉門関における朝廷にようる玉輸入直接管理と、養蚕技術漏洩防止より優先せざるを得ない問題だからだ。

そう考えるなら、インターナショナルなセンス濃厚な「酉陽雜俎」に、巨大国家"突厥"の記載は僅かにこれしかないのも道理ということになろう。[卷四 境異]・・・
突厥之先曰射摩舍利海神,神在阿史コ窟西。射摩有神異,又海神女毎日暮,以白鹿迎射摩入海,至明送出。經數十年。
後部落將大獵,至夜中,海神謂射摩曰:
 “明日獵時,爾上代所生之窟當有金角白鹿出,爾若射中此鹿,畢形與吾來往。或射不中,即縁絶矣。”
至明入圍,果所生窟中有金角白鹿起,射摩遣其左右固其圍。將跳出圍,遂殺之。射摩怒,遂手斬呵吩爾首領,仍誓之曰:
 “自殺此之後,須人祭天。”
即取呵吩爾部落子孫斬之以祭也。至今突厥以人祭纛,常取呵吩爾部落用之。
射摩既斬呵吩爾,至暮還,海神女報射摩曰:
 “爾手斬人,血氣腥穢,因縁絶矣。”


要するに、祖先の狩猟時代のセンスを大事にしており、人狩りによる供犠を続けている部族の集まりとの指摘。
中原感覚で見れば、血の生臭さ芬々の穢れた民族ということになる。
成式がこれをどう見ていたかは定かではないが、仏教徒としては、受け入れがたき存在というイメージが植え付けられていることを指摘している訳だ。
善騎射,性殘忍。無文字,刻木爲契。
  [「隋書」卷八十四 列傳第四十九 北狄]
 (無文字では無いと思われるが。)

もちろん、宗教的にはゾロアスター教である。
   「ゾロアスター教の思い出」

突厥事襖神,無祠廟,刻氈為形,盛於皮袋。
行動之處,以脂蘇塗之。或系之竿上,四時祀之。


(参考邦訳) 段成式[今村与志雄 訳]:「酉陽雑俎」東洋文庫/平凡社 1980・・・訳と註のみで、原漢文は非掲載.

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