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■■■ 「酉陽雑俎」の面白さ 2017.2.5 ■■■

金粟如来

代宗治世最後の766〜779年の頃、楚の地域だった荊州@湖北での話。
そこには、後梁の宣帝-明帝が建立した仏教の一大拠点、陟寺があった。インターナショナルな宗教観が土台だから、ユニークな人々が集まってきたようである。

「卷十一 広知」には、"琥珀"[→] について語る弓術名人の僧侶の存在が記されているし、「卷五 怪術」では、酒浸りの術士が逗留していたことがわかる。ここではその後者をとりあげておこう。

そんな大寺で、数千人を集めた大齋會が挙行されたのである。その時のこと。
(日本の状況だと、仏教行事としては帝が関与する最重要なもので、それに次ぐ行事が、維摩会、最勝会[勝鬘経]ということになろうか。)

このような儀式は半ばお祭りでもあったようで、瓦叩きと珠壊しで楽しむことに決まっていた模様。
前者は、瓦を打楽器的に使って皆で悦に入ったということか。
後者はその意義がわからぬが、真珠ではなく、四宝の1つである頗梨珠か。現地合成ガラス製を壊して壺に入れ、聖水としたのかも知れぬ。

そんなイベントより、壁画を描いた方が嬉しかろうと、酒浸りの術師が突然言い出したのである。スプレー画法だが、用具を使わず口で吹くという驚きの技法。・・・

大歴中,荊州 有術士從南來,止於陟寺,好酒,少有醒時。
因寺中大齋會,人衆數千,術士忽曰:
 “余有一伎,可代珠之歡也。”
乃合彩色於一器中,歩抓目,徐祝數十言,方合水再三哄壁上,成維摩問疾變相,五色相宣如新寫。
逮半日余,色漸薄,至暮都滅。
唯金粟綸巾子衣上一花,經兩日猶在。
成式見寺僧惟肅説,忘其姓名。


その絵とは、敦煌莫高窟壁画で知られる「維摩経変相図」である。
   【画像例】"莫高窟第220窟",東壁@敦煌研究院 2010-5-12

これは、「維摩詰所説経」のシーン。
在俗の長者維摩詰が般若皆空を説き、文殊菩薩をはじめとする出家した僧を論破した様子を描いたものである。[「文殊師利問疾品第五」]
ここでの主張は道教とも親和性が高そうで、ともあれ、大乗の意義を明らかにした画期的経典ということ。

絵は大部分が失せてしまうが、部分的に残った2つの箇所が圧巻。

1つ目の綸巾とは立派な絹製頭巾。長者である維摩居士のもの。前世、金粟如来であり、衆生を導くために在俗の姿で下化したとの説話を意味しているのだろう。

もう一方の子衣とは、露子と呼ばれる舍利弗の袈裟だ。出典は「酉陽雜俎」とされているが、まさに正答。
なにせ、衣の花だけが残っているというのだから。
「維摩経」のハイライトシーンを彷彿させるモチーフそのもの。・・・
維摩居士の説法に感激した天女が花を降らしたが、在家信徒と違い、出家者の上に花が着いてしまい、離れ落ちないのである。花で身を飾ると戒を破ることになってしまうので、当然のように、菩薩達は焦る。つまり、釈尊の法嗣たる一番弟子といえども、戒律に囚われの身なのだ。大乗の精神にはほど遠いとの象徴的シーンと言えよう。

(参考邦訳) 段成式[今村与志雄 訳]:「酉陽雑俎」東洋文庫/平凡社 1980・・・訳と註のみで、原漢文は非掲載.

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