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■■■ 「酉陽雑俎」の面白さ 2017.3.8 ■■■

仙人化観想法

道教の"身中三万六千人神を集む"ための、平坐一心朝念觀相術の話をした。
   「身中神々瞑想法」

注意が必要なのは、「観想」は仏教用語である点。
道教では、普通は、道術の一種「存思法」と呼ばれている。道士毎に秘術もあるだろうから、種類は多いが基本はなにも変わるまい。

現代でいえば、夢がかなうイメージトレーニングということになろうか。夢想することで、気をコントロールし、Spiritualなレベルに高め、長生を初めとする現生利益を享受しようという術である。
ビジネス成功のトレーニング手法でよくみかけるが、道教の基盤思想に依拠していると見ることもできよう。

つまり、仏教の観想法とは思想的には全く異なることになる。
こちらは、即身成仏的な発想が底流にあるからだ。観佛三昧の修行も、"身中三万六千人神を集む"瞑想も、解説上では似たものになるが、目的が違うし、結果も異なるのである。
仏教の場合は長生を目指している訳ではないから、修行を通じて夢を実現する訳ではない。究極的には、自分が抱いていたイメージから離れ、さらなる高みに登ろうと考えているのである。

その辺りの感覚を欠くと、以下の、「巻二 玉格」の文章は全くつまらぬものになってしまう。・・・

太極真仙中,莊周為編郎。
八十一戒,千二百善,入洞天。
二百三十戒,二千善,登山上靈官。
萬善,升玉清。
 白誌見腹,名在瓊簡者;
 目有豪リ,名在金赤書者;
 陰有伏骨,名在琳青書者;
 胸有偃骨,名在星書者;
 眼四規,名在方諸者;
 掌理回菌,名在縁籍者。
有前相,皆上仙也,可不學,其道自至。
其次鼻有玄山,腹有玄丘,亦仙相也。
或口氣不潔,性耐穢,則壞玄丘之相矣。


軽く読んでしまうと、ナンダ、仏教の三十二相(八十種好は、その詳細バージョンだろう。)の模倣かとなろうが、それは短絡思考。

言うまでもないが、三十二相とは、仏の身体に備わっているとされている特徴。仏像/仏画作成に当たっての指示書の内容だったと思われるが、現代日本人から見れば、なにがなにやらだ。おそらく、北インドにおける古代人相学が取り入れられているのであろう。
せっかくだから、ざっと見ておこう。
(1)足下平満[安平立] (2)足下千輻輪[二輪] (3)手指繊長[長指] (4)足跟円好[広平] (5)足趺高隆[高満] (6)手足柔軟[〃] (7)手足指間具足羅網[足趺縵網] (8)如鹿王[伊泥延] (9)正立不曲二手過膝[正立手摩膝] (10)馬陰蔵相[陰蔵] (11)皮膚一孔一毛旋生[〃] (12)身毛上靡[毛上向] (13)皮膚細軟如兜羅綿[細薄皮] (14)身毛金色[金色] (15)身体淳浄[大直身] (16)口中深好可喜方正[-] (17)頬車方正如師子王[師子頬] (18)両脛広闊[両腋下隆満] (19)身体上下縦横正等如尼拘樹[身広長等] (20)七処満好[七処隆満] (21)具四十歯[四十歯] (22)諸歯斉密[歯斉] (23)歯不疎欠𪙉[-] (24)四牙白浄[牙白] (25)身体清浄純黄金色[金色] (26)声如梵王[梵声] (27)舌広長大柔軟紅薄[大舌] (28)所食之物皆為上味[味中得上味] (29)眼目紺青[真青眼] (30)眉眼𥇒如牛王[牛眼睫] (31)眉間白毫右旋宛転具足柔軟清浄光鮮[白毛] (32)頂上肉髻高広平好。[頂髻][「仏本行集経」] 別ソース:[上身如師子、肩円満]

道教もこれに倣って、老子神格化にあたって作成されたようにも思えてくるが、例えそれがコピーを含んでいようがどうでもよい話であることに留意すべきであろう。
あくまでも仙人になるための修行である「存思法」のためのものであり、その姿はいかようにも変わりうる。教団毎に違ったところで、どうということでもなかろう。
例えば、こんな風に描かれるのである。・・・

所謂七十二相者
頭圓如天、面光象日、伏犀蟠起、玉枕穹隆、
皓發如鶴、長七尺餘、眉如北斗、其色翠香A
虎髭龍髯、素結如絲、耳有垂珠、中有三門、
高平於頂、厚而且堅、河目日月、方瞳
豪リ
鼻有雙柱、準骨隆隆、口方如海、唇赤如丹、
有紫色,其香如蘭、齒如編貝、其堅如銀、
數有六八、上下均平、舌長且廣、形如錦紋、
其音如玉、其響如金、顴高而起、頤方若矩、
日角月淵、金容玉姿、龍顔肅肅、鳳視閑閑、
額有光象、三午上達、天庭平坦、金匱充盈、
白誌、頤有玉丸、項有三約、鶴素昂昂、
垂臂過膝、手握十紋、其指纖長、各有策文、
爪有玉甲、身有獄ム、胸有
偃骨、背有河魁、
臍深寸餘、腹軟如綿、心有錦紋、腹有玄誌、
眼有輪文、足蹈二儀、指有乾坤、身長丈二、
體芳香、面方而澤、上下三停、體如金剛、
貌若琉璃、行如虎歩、動若龍趨。

  [馬炳文@台湾中華道教學院 編撰:「太上老子傳」]

7階層に分け、総数で約700神霊を描いてある、南北朝 陶弘景:(洞玄靈寶)真靈位業圖」で見てみると、老子は第4階層の主神太清"太上老君"として登場している。教祖とされてはいるものの、道教としては、あくまでも、官僚的ヒエラルキーが第一義的に重要な訳で、それを補完する特徴以外にはたいした関心はなかろう。

もともと、道教の核心的なコンセプトたる「氣」とは、"Spirits"というより、宇宙の存在そのもの。(道術で「氣」をコントロールして"Spirits"化するのであろう。)天地に有るのは勿論のこと、身体内にもある訳で、普遍的に実在するモノである。そのようなモノを像化すること自体、自己矛盾であろう。

尋尋呵不可名也、復帰于無物。
是謂無状之状、無物之象。
 [「老子」第十四章]
道如是不可見名,如無所有也。
是無状之状,無物之像。
 [天師道教団テキスト「老子想爾注」]

しかし、そうならざるを得ないのが宿命でもある。
葛洪:「抱朴子」卷十五 雜應の以下の老子の特徴を描いた文章を読むと理由がわかってくる。・・・

老君真形者,思之,姓李名,字伯陽,身長九尺,黄色,鳥喙,隆鼻,秀眉長五寸,耳長七寸,額有三理上下徹,足有八卦,以神龜為床,金樓玉堂,白銀為階,五色雲為衣,重疊之冠,鋒之劍,從黄童百二十人,左有十二青龍,右有二十六白虎,前有二十四朱雀,後有七十二玄武,前道十二窮奇,後從三十六辟邪,雷電在上,晃晃cc,此事出於仙經中也。
見老君則年命延長,心如日月,無事不知也。


老子の姿を「観想」すると、長生可能だというのである。

(参考邦訳) 段成式[今村与志雄 訳]:「酉陽雑俎」東洋文庫/平凡社 1980・・・訳と註のみで、原漢文は非掲載.

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