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■■■ 「酉陽雑俎」の面白さ 2017.5.30 ■■■

葱嶺に入る人々

「卷四 境異」だが、北狄や夷蛮ではなく、猿的だから西戎として書いているように見えるが、それとはかなり違った雰囲気を感じさせる話がある。・・・

烏耗西有懸渡國,
山溪不通,引繩而渡,朽索相引二千里。
其土人佃於石間,壘石為室,接手而飲,所謂猿飲也。


場所だが、今村注によれは、懸度はボロール/Bolorで、烏耗は/Uddiyana(烏仗那)@現パキスタン西北Swatとの説があると。
この文は、以下の抄録らしい。・・・
郭義恭(《廣志》)曰:
【烏】之西,有【懸度之國】,
山溪不通,引繩而度,故國得其名也。
其人山居,佃于石壁間,累石為室,民接手而飲,所謂飲也。

  [「水經注」卷一 河水]

烏耗は、于[現在の新疆和田/ホータン]近隣の、皮山[西域36ヶ国の1つ]西南に位置する国。  [→"烏弋山離国"]

西から東へ、疏勒/カシュガル(喀什)⇔莎車/ヤルカンド⇔皮山⇔西夜⇔子合[=葉城]⇔皮山⇔于/ホータン(和田)という配置になる。
自皮山西南經烏耗,渉懸度,
賓,六十餘日行至烏弋山離國,地方数千里,時改名排持。

  [「後漢書」卷一百十八 西羌傳第七十八@四庫全書]

従って、懸渡國は、葱嶺/パミールへの抜け道に位置するのであろう。
至【疏勒】之西為【捐毒】,【休循】,已人葱嶺,【于貫】之西,自【皮山】,【西夜】,【子合】以至【烏耗】,又皆"葱嶺之國",為通"西南國之孔"道。
  [羅香林[1906-1978年]:「中國通史」上冊 両漢與西方諸國之交通 正中書局, 1954]

西からのシルクロードの一般的なルートは、おそらく、アムダリア北側から、ブハラ⇒サマルカンド⇒フェルガナ⇒奧什/オシュと来てタリム盆地に入る。[烏恰/ウルグチャト⇒カシュガル]
つまり、パミール高原の北側を通ることになる。(代替:納倫/ナルイン⇒天山山脈越え⇒ウルグチャト⇒カシュガル)

しかし、アムダリア南側から入ってしまうと、バルク⇒勃律/ボロールというルートになり、パミール高原南側(急峻なヒンズークシュ山脈の北側)の峡谷を貫く、東方見聞録で有名になった、瓦罕/ワハーン回廊を抜けてタリム盆地に入ることになる。[巴達克山/バダフシャーン⇒ワフジール峠⇒ヤルカンド⇒カシュガル]
こちらは、本格的な山岳部であり、極めて危険な道である。
この道すがらにあるバダフシャーンはSar-i Sang鉱山で採掘されたラピスラズリの交易地だったようで、それが故に重要な道でもあったと言われている。

もちろん、その採掘場所は、橋などとても架けらそうにない峡谷を抜け、驢馬も使えぬ絶壁にどうやらこうやら歩ける道を通って、ようやくにして到達する場所だった筈。最終到達ルートについては、今でもそれほど変わっている訳ではなかろう。
そんな所に行くのであるから、少しでも荷を軽くし食料を多く運びたい訳で、手で水を飲むのは当たり前。そこまでして、生活したくなる場所かネという話だ。現代のシュラフやテント持参の山登りなど狂気の沙汰であり、岩室を探し、そこで連日ビバークしか手はない。
・・・というミクロの話ではなさそうなのが、「酉陽雑俎」の凄さ。

そうそう、パミール"高原"を日本的情緒で見がちなので、そこは注意した方がよい。
画像でみれば、山に囲まれた美しい広々とした高原で放牧がおこなわれているイメージを持ちがち。しかし、大陸の視点では、それは猫の額のような場所でしかない。あくまでも山又山の地帯なのだ。
マクロで見れば、そんなことはすぐにわかる。東西に伸びる大ヒマラヤの端に何本もの孫的山脈が走るという図だからだ。西はパミールの8本山脈群。東は大河の源流域が集まる横断山脈群。
ご存知のように、ヒマヤラはプレート衝突で隆起した場所だから、基本は海底の石灰質。例外的な場所だけ、その下の層の岩が露出する。屈曲した山脈が集まっているといっても、そんな地質だから、谷は水流で抉られてとてつもなく深い。
3,000m級の高地だから、山岳部は、ほぼ半年はとても入れたものではなかろう。従って、朽ちた縄にすがる道になって当然。そんな場所に、貴石を探して入山する人達がいるのだ。まさに、"仙"の世界そのもの。

マ、そんな気分で成式が書いていたかは、なんとも言えぬが。

(参考邦訳) 段成式[今村与志雄 訳]:「酉陽雑俎」東洋文庫/平凡社 1980・・・訳と註のみで、原漢文は非掲載.

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