表紙 目次 | ■■■ 「酉陽雑俎」の面白さ 2017.5.17 ■■■ 老子化胡経「酉陽雜俎」は簡素な文章が多く、そのせいもあって、何が言いたいのかさっぱりわからなかったり、他では全く耳にしない話もあったりと、えらく厄介な書である。従って、現代人が読めば、まずはこの体裁の印象から、いい加減に奇譚を寄せ集めた創作集と見なしがち。しかし、その内容はどれもこれも「事実」なのである。著者の段成式の空想で書かれたものではなく、モトネタから注意深くピックアップして編纂したもの。面白さを追求したのではなく、知的刺激を呼びそうなものと、成式の問題意識にひっかかってくるものだけを厳選していると言ってよいだろう。 従って、それぞれの話の背景を考えながら読まないと、なんの感興も呼ばない代物。 東洋文庫邦訳版「酉陽雜俎」の嬉しいところは、魯迅の研究家である今村の注記。そのセンスの良さは抜群である。ただ、ズブの素人がそれを感じるためには相当な労力を必要とする。 と言うのは、注記せずの箇所も周到に選んでいるからだ。その絶妙さには恐れ入る。隠れた遊びだったのかも。 時代から見て、毛沢東語録片手に闊歩する紅衛兵の馬鹿さ加減に呆れはて、と言うかそれを囃す日本のマスコミや自称知識人の姿に唖然となり、3年間、この翻訳に没頭されたのだと思う。・・・膨大な資料からの文言検索や、関連用語一瞥が、素人でも一瞬にしてできる時代まで生きていて欲しかった。 (翻訳機能はマダマダ。こんな文章では、読まない方がましである。・・・ 私は上昇したときに西、着色光浸透Ziweiがあります。 皇帝は、ドロップすると、3つの穴によってフィアレスレコードを付与します。 白い爪の長老たちを参照してください善行を呼び出すために…) さて、ここで取り上げるのは道教話の「巻二 玉格」に収録されている、老子が西域へ入った伝説の部分。 「史記」には、道コ経の五千余言を関の長官である尹喜に残して出立したとされているが、これは極めてよく知られている。 老子修道コ,其學以自隱無名為務。居周久之,見周之衰,乃遂去。至關,關令尹喜曰:「子將隱矣,彊為我著書。」於是老子乃著書上下篇,言道コ之意五千餘言而去,莫知其所終。[司馬遷:「史記」列傳卷六十三老子韓非列傳第三] 「史記」を丸暗記できぬ御仁は知的レベルが低いと見なされた時代であろうから、誰でもが(もちろん、被支配者階層を除いてだが)知っていたコト。 その後行方知れずという話をもとに、伝説的なストーリーが作られたのだが、成式は、それに関係する話をしていることになる。 偽経に絡む極めてタッチーな内容をさらりと流しているのである。・・・ 老君西越流沙,歴八十一國。 烏弋、身毒為浮屠,化被三千國,有九萬品戒經, 漢所獲大月支《復位經》是也。 孔子為元宮仙, 佛為三十三天仙。 延賓官主所為道,在竺乾。 有古先生,善入無為。 これを注なしに眺めたところでなんの面白味もない。翻訳されてしまえば、"ふ〜ん"、で通り過ぎてしまうだけの、実につまらぬ話である。 十分な解説があって、それを考えながら読まない限り、「酉陽雑俎」の観賞には踏み込めないのだ。 しかしながら、このような部分は学者にとっては鬼門であろう。下手に説明すれば、隠れ老子信奉者は少なくないからどう扱われるかわかったものではないからだ。従って、こういった箇所には、最低限の注しかつかない。素人にとってはつらい。 自注を作るしか手がないのである。・・・ <老君西越流沙,> 上記の、「史記」の引用文では、老子が西域に入ったとしている訳ではない。王浮@洛陽創作の偽書「老子化胡経」@300年頃でのお話。(対仏教用の書とされている。) 老子はインドに入り仏陀になり、釈尊を弟子としたとの内容とされることが多いようだが、この辺りのストリーは色々。当初作られた脚本の筋書は定かではない。 仏教勢力は、これに対して、老子が仏陀の弟子となったとの「老子大權菩薩経」を創作したようだ。 下らぬ対立抗争に映るが、本質的な相克があり、習合しかねる思想であることがわかってしまったことを示しているのだろう。従って、偽書という手法にばかり注目すべきではない。仏教徒の成式も、そんな観点で、道教の考え方に注目している訳だ。 ただ、道教を事実上の国教にしている唐朝で、余計なことを言えば首がとぶから、そこらは慎重な筆の運びになるが。 なにも記載していないが、この対立であげておくべきは、実は「老子化胡経」ではない。仏教伝来の地である白馬寺@洛陽西郊の南門外での勅命による道術イベント(道教経典を焚火に)。もちろん失敗した訳だが、これこそが両者対立の原点とも言え、その頂点が偽経と言えよう。 このイベントは、呪術がどうのこうのという話ではなく、仏教の「空」と、道教の絶対存在「気」という根源思想のぶつかりあい。(「気」とは、ある意味、地-水-火-風といったものの抽象であるが、仏教思想の「空」とはその存在を否定しているようなもの。) コレは結構重要な視点である。 と言うのは、仏教にかかわらず、主要な宗教は肉体の滅失という現前の事実を受け入れ、永遠なのは精神のみという方向に進んでいるからだ。しかし、「気」はそれと相反する概念であるのは間違いない。それは精神とは全く無縁な、外的なモノを抽象化した概念だからだ。しばしば、それこそが「自然」の本質との解説が付随するが、早い話、「自然」は永久不滅であり、それこそが「気」なのであるとの理屈を美辞麗句で描いているにすぎない。 そして、ヒトはこの「自然」と一体化すべしとなる。ここが肝心なところで、ヒトが「気」の世界に没入すれば、永久に不滅になるということを意味している訳だ。 繰り返すが、これは主要な宗教が依拠する"精神の世界での不滅感覚"とは無縁。 どういうことかと言えば、ヒトの肉体が「自然」同様に不滅であると見なす思想だからだ。死んでも、肉体的に復活すると考える訳だ。 おそらく、この永遠性の象徴的語彙が「道」なのであろう。「道」を得て初めて「自然」と一体化した"真人"になれる。従って、それを目指して生き抜くのが道教の宗教観。 そうなれば、将来を見据えて天国を目指すことなどありえない。枯れた境地の生活を最良と考える筈はなく、積極的に現実を生き抜き、永遠性を希求するのがこの宗教の特徴である。道教の自然との一体感とは、自然からいかにして良い「気」を取り込むか常に感覚を研ぎ澄ませることで生まれるもので、現代のナチュラリスト的自然との一体感の発想とは似て非なる概念である。単純化すれば、虎を殺して食すれば、その「気」を頂戴できるという考え方だからだ。 釈尊は生老病死の深い悩みからの解脱を説いた訳だが、このような発想であるから、道教から、そのような観念は生まれようがない。 それがわかれば、「気」という哲学と、仙人的風合いを醸し出す道教的風土は表裏一体のものになるのは当然と言えよう。 仙とは、単に、イ[=人]+山でしかない。 良い「気」を取り込み不死の"真人"になるためには、山から得るしかないという思い込みがそこにある。ある意味、山信仰の書でもある「山海経」において、神人とか不死が散見されるが、そんな観念を表している語彙と考えるべきでだろう。 <歴八十一國。 烏弋、身毒為浮屠, 化被三千國, 有《九萬品戒經》, 漢所獲大月支《復位經》是也。> 老子歴訪とされる西域の国々のくだり。 聞き慣れない国名を記しているが、これらの名称は、「魏書」で見ることができる。・・・ 及開西域,遣張騫使大夏還,傳其旁有身毒國,一名天竺,始聞有浮屠之教。 哀帝元壽元年,博士弟子秦景憲受大月氏王使伊存口授浮屠經。… 浮屠正號曰佛陀,佛陀與浮圖聲相近,皆西方言,其來轉為二音。 [北齊 魏收:「魏書」卷一百一十四釋老志十第二十] 要するに【張騫の経路】の地名である。 隴西@甘粛[B.C.139年]⇒ 祁連山[匈奴地域・・・捕虜となる.]⇒ 大宛/フェルガナ⇒康居/ソグディアナ⇒ [大月氏地域]⇒ 大夏/バクトリア・・・(情報取得:"身毒/シンド", "浮屠教/仏陀") [周辺国:安息/ペルシア,烏弋山離/パロパミソス,罽賓/ガンダーラ] 烏弋山離/パロパミソスとは、下記に示す【マケドニアのアレキサンダー大王[在位:B.C.336-B.C.323年]遠征地】における拠点である。土着民と婚姻関係を結んだのであるから、現在のアフガニスタン内の都市ではないかと思われるがよくわからない。 バルカン半島南部〜多島海〜アナトリア⇒ エジプト〜ナイル中流〜レバント⇒ チグリス-ユーフラテス河流域⇒ ペルシア(山側+海側)⇒ パミール西北部中央アジア(フェルガナ,ソグディア,バクトリア,…)⇒ インダス川流域(パンジャブ,身毒/シンド) <浮屠,化被三千國,> 浮屠とは仏陀のことだから、"化被千国 頼及萬方"といった意味。 偽経の核心は、これも老子のお蔭だという点。為政者と二人三脚で歩み始めた道教教団としては、これによる仏教排斥は最重要課題であったと見てよいだろう。 或言老子入夷狄為浮屠。浮屠不三宿桑下,不欲久生恩愛,精之至也。… [「後漢書」列傳卷三十下 郎襄楷列傳第二十下] 浮屠所載与中国老子經相出入,盖以為老子西出關,過西域,之天竺,教胡。 [「魏略」西夷傳] <有《九萬品戒經》> 老子の力があったからこそ、官僚が重視する、巨大な書類の山が出来上がったという訳か。 偽経が道教教団の仕業であることはその通りだが、それを宗教対立的に捉えるのは浅薄すぎる。"道教教団"自体、政治的組織の色が濃いからである。 拠点である道観は、国家主導で王侯貴族が建立したもの。それは他の宗教でも似たりよったりに見えるが、渡来宗教はすでに教団が存在しているのだが、道教にはそのような組織は無かったという点に注意を払うべきだろう。 要するに、そこここに存在した民俗的な土着道士を半強制的に出家させで教団が作られたということ。各地の道教を政治的に統制化する形で教団が生まれたのは間違いない。パトロンは同じでも、仏教とは根本的に異なる形で教団化が進んだ点に注意を払うべきである。 一般に、宗教教団が生まれれば、明確な出家戒が定められるもの。それに伴い、懺悔滅罪の悔過行系も出来上がるのが普通。 ところが、道教の場合、教団化の過程が自発的なものではないから、在家と出家の間の線引きができかねる。脱俗感覚は個人の私生活状況によって千差万別だからだ。この結果、道教教団の集団規律としての"範"たる戒は常に揺らがざるを得ない。体系的かつ明示的な戒は道教にはそぐわないのである。戒は無理なものも入ってくるし、矛盾だらけになり、総ての道士を網羅しようと思えば、それこそ百万戒にならざるを得ない。 だが、為政者からしてみれば、これは頗る好都合。戒の内容を明示的に決めずに、常に、ご都合主義的"人事"が可能になるからだ。教団に官僚ヒエラルキーを持ち込みさえすれば、統制管理に最適な組織と化す訳で。 換言すれば、教義的角逐は表面上だけで、為政者からの実利獲得競争の風土がダイレクトに持ち込まれる宗教勢力にならざるを得ないのである。当然ながら、教義は多元的で、弟子と言っても、実質的には臣下なのである。(従って、非教団的な孤立した道士にのみ、本来の弟子が生まれると言えなくもない。) ちなみに、出家戒儀礼の仏教どの違いを見てみよう。・・・ 為政者からみれば、帝国維持のための宗教であるから、一番重要なのは"世俗辞去儀礼"だろう。当然ながら、儒教的な祖先と親(宗族/氏族)及び天子への礼(恩恵への感謝)が持ち込まれることになろう。出家後の組織的影響力行使を考えると、これに親知朋友を巻き込む形式にならざるを得まい。 その上で、モデルである仏教の三宝[仏・法・僧]に類似の儀式が加わることになる。道・経・師への帰依の意思表明ということになろう。繰り返すが、僧と師は異なる概念であり、道教では臣下の誓いとなんら変わらない。 その上で、在家とは異なることを示すために、道服を身に着けることになる。剃髪不要であり、袈裟 v.s. 簪冠の違いがはっきり示しているように、宗教官僚任官儀式そのもの。 <漢所獲大月支《復位經》是也。> 漢が大月支国から獲得した経典とは「佛説四十二章經」のことだろう。後漢の第2代皇帝[明帝劉荘]が使者を派遣して写経したもので、最初の翻訳経典である。 翻訳体制が整っていたとは思えないから、渡来僧による解説を踏まえて簡要な説明をバラバラと集めた書ということになる。42段の入門用ハウツー本と言えなくもないが、儒教や道教のセンスも取り込まれているようだから、残存している書籍は偽書の可能性も捨てきれない。 <孔子為元宮仙,> 太上老君は具象概念で老子の神格。太上道君は「道」という抽象概念の神格。これに加えて、「太元」を神格化した元始天尊の3柱が道教の最高位の神々。 [→] 聖境たる、天上界三清境の上清境に在る弥羅宮に住むとされる。(従って、俗称は三清神である。) 道君[靈宝天尊]の形象は大局図(陰陽丸形鏡)であり、一種の呪術的様相を示している。 そして、住んでいる所は"元宮"。 上元宮即太上大道君所治。 [廣弘明集卷第一] ト占を封建的身分社会安定のための統治の道具にしたともいえる孔子が、その元宮で仙人として召し抱えられたということであろう。 <佛為三十三天仙。> 中央の帝釈天を四天王が囲む図とは、仏教に取り込まれたインドの神々の様であるが、これを地誌的表現で書けば、須弥山周囲の4峰に各8天が存在するとなろう。合計三十三天。[卷三 貝編] [→] すべて、天に昇った仙人として扱われることになる。 <延賓官主所為道,在竺乾。有古先生,善入無為。> 中華帝国域内に編入された時期は別だが、はたして西域にまで宮観が立てられたことがあったのだろうか。インドの土着系信仰と似た者同士と言えないこともなさそうではあるが。 それはともかく、残存している、作られた老子伝説ではこんな具合。号は古先生。竺乾とは天竺の西乾のこと。・・・ 老君西昇,開道竺乾。… 號 古先生,… 善入無為,不終不始,永存綿綿。 [「老子西昇經」西昇經卷上西昇章第一] 尚、話はとぶが、「老子化胡経」には、マニ教/明教の影響が濃厚との見方もあるらしい。(マニ教は、一大世界宗教だったが、弾圧を避けた動きをとるうちに、イスラム教や道教に取り込まれてしまい消滅したとされる。明教としての名前を引き継いだ像や建物は現存寺院でとして存在するものの、教義は消失している。) 成式は明教については語っていない。唐代に存在していたから知らない筈がないが、知らん顔を決め込んでいる。マ、道教のことである。ご都合主義的に時代の要請に応じてなんでも取り込むから、わざわざそのことに触れる要無しということかも。 そうそう、白川が、日本は文化の吹き溜まりと指摘したことがあるが、マニ教に関してもその通りであった。絵が現存している。 ・六道図@大和文華館 [→研究ノート 2009年] ・絹本著色十字架捧持マニ像@山梨県立博物館 このマニ教の話は、成式が書いたことと無関係ではない。 中華帝国における仏教の運命は、マニ教と五十歩百歩。この偽経登場の時点で決したと言ってよかろう。 現生を積極的に生き抜こうという土着宗教は、氏族社会を基盤とする為政者と二人三脚で動けるから、圧倒的に優位なのである。従って、道教と根本的に敵対する思想とみなされれば、習合か、消滅かの2択になる。前者を選ぶということは、孔子も仏陀も、一介の"仙"の扱いになるということ。 馬鹿げた偽書であるとか、インドにも老子がいたとは笑止千万という見方をするのでは、何も読み取ることはできない。成式は、そんなことはどうでもよいという姿勢でこの文章を書いているのだと思われる。おそらく、この時点でインドから仏教が駆逐されると見ていたであろう。換言すれば、中国における仏教の将来も見越していたことになる。 今や、中国仏教が残っているのは、文化の吹き溜まりの地だけだが、そこまでは想像できなかったかも知れぬ。 (参考) 桑原隲藏:「老子化胡經」明治四十三年十二月『藝文』第一年第九號所載@青空文庫 長島優:"「老子化胡経」について" 佛教文化学会紀要 2000(9) (参考邦訳) 段成式[今村与志雄 訳]:「酉陽雑俎」東洋文庫/平凡社 1980・・・訳と註のみで、原漢文は非掲載. 「酉陽雑俎」の面白さの目次へ>>> トップ頁へ>>> (C) 2017 RandDManagement.com |