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■■■ 「酉陽雑俎」の面白さ 2017.6.15 ■■■

黄玉

「卷十一 廣知」に玉女に化ける鬼の話が収載されている。版によっては欠落しているが。
考えてみると、これは黄玉の扱いについて一言ということでは。・・・

玉女以黄玉爲誌,大如黍,在鼻上,
無此誌者,鬼使也。

玉女は常に黄玉によるアザ[痣]をつくっている。
その大きさは、黍米程度で、鼻の上にある。
これがあれば、真の玉女。
そのアザがなければ、鬼がヒトを試しているのである。


出典はこちら。・・・
玉女常以黄玉為志,大如黍米,在鼻上,是真玉女也,無此志者,鬼試人耳。
   [葛洪:「抱朴子」内篇卷十一 仙藥]

玉女とは、玉のように美しい女性を指すのではないかと思うが、ここでは仙女を意味しているというのが、常識的解釈。ただし、現代人的には、両者を習合させ、脱俗的清純派女優を指す言葉になるのかも。

唐代だと、山に棲む鬼は、女性に化け、山に入って来た人を騙すという基本モチーフが存在していたようだから、コレもそんな話として片づけがち。
しかし、天邪鬼的意図で書いているつもりはないが、その逆の可能性がありはしないか。

玉とは、日本人的にはあくまでも石でしかない。硬い宝石とは似ても似つかぬモノ。(どうして、玉石混淆となりがちなモノを崇拝するのか、その心情はわかりにくい。残念ながら、その辺りの解説には未だに出会ったことがない。)
従って、小さな痣のような部分が玉中にできていることは少なくなかろう。それは、"清純"とは逆の印象を与えるが、欠陥と言うより、それはそれでかえって艶っぽい美しさがあるようにも思える。
玉鑑賞の実態からすると、どうなのだろうか。

ついついそんなそんな不純な見方をしてしまうのは、山海經では"玉"を矢鱈に重視しているから。山から玉が採れるか否かを逐一記載するこだわりには恐れ入る。
  「玉石類出自」
"玉"は"壁"として、山神の依り代的な祭器の役割を果たしていたから、祭祀に不可欠だたのはわかるが、どうしてそこまで崇拝するのかさっぱりわからぬ。
  「死後の世界」

そして、おそらく各地の"玉"採掘の地では枯渇してしまい、大きくて美しい新疆和玉を調達することになったのであろう。
中華帝国からみれば、"絲綢之路"というよりは、“玉石之路"だったのである。

そんな神の依り代がいつのまにか、"夏季服黄玉"[「呂氏春秋」]ということで、薬にも使うようになっていくのである。神の力を身体にとりこもうということか。
そういう観点で、至極の"玉"の価値が決められていったのだろう。油黄玉とか羊脂白玉といった名称は、この辺りで生まれた服用感覚に由来する可能性が高かそう。

このような、評価が進めば、官僚統制を旨とする社会であるから、当然ながらランクは細かく規定されていったろう。
先ずは、誰でもがわかる色からか。・・・
《玉》[集解]…王逸「玉論」,載玉之色曰:
  赤如冠,
  黄如蒸栗,
  白如截肪,
  K如純漆,
  謂之玉符,而青玉獨無説焉。
今青白者常有,K者時有,黄赤者絶無,雖禮之六器,亦不能得其真者。今儀州出一種石,如蒸栗色,彼人謂之栗玉,或云亦黄玉之類,但少潤澤,聲不清越,為不及也。然服食者,惟貴純白,他色亦不取焉。

   [李時珍:「本草綱目」金石之二 玉類一十四]

現代でも、この時代の色感覚はそのまま生き続けているようで、"世人都曉羊脂好,豈知黄玉更難找"とか、"一黄二白三墨"という言葉が通用しているようだ。言うまでもまいが、"玉"を家に飾らないではいららず、それが家としての誇りにもなっている訳だ。

古代から連綿と続く風習だろうから、それが中華帝国のヒエラルキー維持の道具となるのは自然な流れ。
司馬彪云、君臣佩玉、尊卑有序、所以章徳也。今參用杜之法、天子白玉、太子瑜玉、王山玄玉、自公已下、皆水蒼玉。
    [「隋書」卷十二禮儀志]
黄玉は欠落。
そうなると、反ヒエラルキー派は、不純の黄玉を取り上げたくもなろう。

(参考邦訳) 段成式[今村与志雄 訳]:「酉陽雑俎」東洋文庫/平凡社 1980・・・訳と註のみで、原漢文は非掲載.

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