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■■■ 「酉陽雑俎」の面白さ 2017.9.17 ■■■

輓歌の起源

「卷十三 屍」で、柩棺を牽引する綱引き歌が挽歌の起源としていたが、[→]その他の説も色々あるよというご紹介。・・・

世説:
  挽歌起於田,為死,
  從者不敢大哭,為歌以寄哀也。
摯虞《初禮議》:
 “挽歌出於漢武帝,役人勞苦,
  哥聲哀切,遂以送終,非古制也。”
工部郎中嚴厚本雲:
 “挽歌其來久矣。
  據《左氏傳》,
  公會呉子伐齊,
  將戰,公孫夏命其徒歌《虞殯》,示必死也。”
予近讀《莊子》曰:
 “;謳於所生,必於斥苦。”
 
司馬彪註雲:
 “;,讀曰拂,引柩索。
  謳,挽歌。
  斥,疏緩。
  苦,急促。
  言引;謳者,為人用力也。”
[續集卷四 貶誤]

順に内容を見ていこう。

---「1」---
世の中の説は、【田從者】発祥に傾いていそう。「史記」に記載されているから信頼に足るということでは。
田自刎,從者二人奉首獻高帝,二從者忍痛完成使命,心不勝哀而不敢哭,只好以歌當哭。  [「史記」田列傳]
高帝に出頭するよう呼ばれたので、田は從者と出立するが、途中で自殺。従者2人はその首を奉じ、高帝に献上しに行く。
痛恨のあまり大哭したいところだが、それをこらえ、歌によって哀悼を表出したのである。

---「2」---
「初禮議」は、【漢武帝役人】発祥と見るが、これは史書に基づいたもの。
新禮以為輓歌出於漢武帝役人之勞歌,聲哀切,遂以為送終之禮。  [「晉書」卷二十 禮志中]
労務提供の役人がほとほと疲れ切って、その歌が切なく哀しいものだったということ。そこで、それをそのまま終局の送りの歌に使ったというのである。当然ながら、古代の制度とは無縁の儀式である。

---「3」---
工部郎中の嚴厚本は遥か昔説。「左氏傳」哀公十一年の記載が古いというのであろう。
公孫夏曰:「二子必死。」將戰,公孫夏命其徒歌《虞殯》。
公と呉子が会って、齊の討伐に向かう時のこと。将に戦闘の火蓋が切られようという際、公孫夏は徒に"虞殯"を歌うように命じたのが発祥という訳だ。必死で戦う姿勢を歌で示したのである。
これはこれでわかるが、それと一般葬儀での棺を載せた車を挽く際の歌との位置関係がよくわからぬ。

---「4」---
引用されている《莊子》の箇所は逸文らしい。(「太平御覽」卷五百五十二 禮儀部三十一 輓歌に収録されている。)挽歌ではなく、輓歌となっているが、棺を載せた執挽喪車を進める者が歌ったのだからこちらの文字が正式な感じもする。
そうだとすれば、謳から来ていると見るのは妥当なところだろう。車の綱を引きながら、声を揃えて謳うのであるから。そして、死者のために労苦をいとわず参加する訳だ。

(参考邦訳) 段成式[今村与志雄 訳]:「酉陽雑俎」東洋文庫/平凡社 1980・・・訳と註のみで、原漢文は非掲載.

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