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■■■ 「酉陽雑俎」の面白さ 2017.9.25 ■■■

煩雑な婚儀

婚礼の風習について。

「卷一 禮異」にも「納采と婚儀」[→]に関する記載があるが、その続きのようなもの。・・・

《禮》:
 婚禮必用昏,以其陽往而陰來也。
今行禮於曉;
 祭,質明行事,
 今俗祭先又用昏,謬之大者矣。
夫宮中祭邪魅及葬則用昏。

又,今士大夫家昏禮露施帳,謂之入帳。
新婦乘鞍,悉北朝余風也。

《聘北道記》雲:
 “北方婚禮必用青布幔為屋,謂之青廬。
  於此交拜,迎新婦。
  夫家百余人挾車呼曰:
   ‘新婦子。’
  催出來。其聲不絶,登車乃止。
  今之催妝是也。
  以竹杖打婿為戲,乃有大委頓者。”
江コ藻記此為異,明南朝無此禮也。
至於
 奠雁曰鵝,
 纓曰合髻,
 見燭舉樂,
 鋪母
 童,
其禮太紊,雜求諸野。
 [續集卷四 貶誤]

婚礼とは、文字的には、こういうことか。・・・
昏時に[婚]、郎君が[婿]。女[姻]を取りて[娶]、家に入れ[嫁]、妻(簪を挿す女)となす。(尚、婦[=女+帚]は聖なる箒で儀式の前に祖廟/宗廟を霊的に清める役割の女という意味との白川説あり。)

「禮記」では、
婚礼は、日が暮れた環境たる"昏"が必要、と。
それは、"陽"が往き、"陰"が来る時だからだ。
ところが、
今、婚礼は夜明けに行われる。
祭礼を明け方の行事にしているのだ。
しかも、現在の俗世間の習わしだと、先祖祭祀は暮れ時に行なう。
コレ、とんでもない大誤謬である。
夫れ、邪魅や葬関係の宮中祭祀が暮れ時に行われることを、誤解しているのでは。

婚礼の話に戻るが、
今、士大夫の家では、路地に張りを作り、そこで婚礼を行うが、それを"入帳"と謂う。

その上、新婦を鞍に乗せるところを見ると、悉く、北朝の風習の余燼と見てよいだろう。


確かに、どう見ても乾燥地帯の遊牧民の儀式仕様である。

江コ藻の撰である「聘北道記」には、こんな風に記載されている。
北方の婚礼では、青布幔製テントの用意は必須。それを、青廬と謂う。
その中で、互いに拝礼して、新婦を歓迎する。
夫れ、家人100人以上が、車を挟んで、呼びかけることになる。
  「新入りのご婦人さん。」と。
出てくるのを催促しており。その声は絶えなく続くが、車に登ったところで、ようやく止む。
これが、今、"催妝"とよばれるもの。

婚礼の戯れとして、婿を竹杖で打つ風習がある。大いにやりすぎてへばってしまう者も。
江コ藻は異な事と記載しており、明らかに南朝には無い礼である。

さらに、こんな習慣も。

 【奠雁…新郎家から木像雁と衣料を結納。
       雁には鴛鴦的な意味があるのだろう。
       新婦家は許婚書と拓日を渡すことで完了。
   ""と言う。…ジャーゴンでは。
 【…"冠後部の垂下部を解く"との意味か。
   "合髻"と言う。…髷髪を合わせ結う。(交杯酒前各剪下一頭發[髪])
 【見燭…キャンドルサービス。(來交親拜"花燭":「華燭の典」の元では。)
 【舉樂…奏樂。娶る側は音楽演奏しないようだが。
       "取婦之家,三日不舉樂,思嗣親也。"[「禮記」曾子問]
 【鋪母…嫁側による寝室等しつらえ役派遣。
       "新房鋪床"の福壽。
 【…童子が合を取り持つ。
       :瓢を縦二分して作った杯で酌。縁固めの杯の儀。
これたは、まったくもって、ゴチャゴチャが過ぎる。
まさに、"雜求諸野"の典型と言えよう。


この最後の4文字は、成式が時に一発かます、"ワッハッハ"記述。・・・
禮失而求諸野。 (礼を失い これを野に求む。) [「漢書」卷三十 芸文志 第十」]
わかりにくいが、儒教の本質はここにありである。なんだろうが文化の発祥は自分達の祖にしないと気がすまない人々の思想ということ。(これは、唐代にかぎらず、現代でも立派に通用する。儒教を道徳や倫理として学んでいると全く気付かないから、頭がおかしい一部の人と勘違いしがちだが、宗族第一主義とはすべての栄光は祖に起因するという偏屈で危険な宗教。)
インターナショナルな文化のただなかにいた成式にとっては、このあたりの感覚は実に優れている。マ、「論語」をどう読むかで、違ってくるが。・・・
子曰:
 「先進於禮樂,野人也;
  後進於禮樂,君子也。
  如用之,則吾從先進。」
  [「論語」先進第十一之一]

要するに、婚礼が次第に華美になり、巨額な出費を見せつけることこそが"家"の繁栄と考えらていた時代ということ。
もっとも、そういう意味では、現代日本もいい勝負。中京地区の、鳴り物いりの豪勢な嫁入り支度品つきのお輿入れは、未だに続いているそうだし。コレ、儒教で言えば、"野人"の婚礼の典型になろう。

一族繁栄のために葬儀を煩雑で盛大なものにし、大金を注ぎ込ませたのは、まごうかたなき第一線の儒教教団。民衆的発想なら、それなら、子孫繁栄の儀式に大盤振舞して当然となろう。それだけのこと。
精神生活、特に恋愛や夫婦関係にまで、官僚統治を持ち込もうというのが中華帝国の為政者であり、それを支える儒教教団もそこに注力し式次第が規定化された訳だが、さっぱり成功しなかったのである。
文儒発想からすれば、"野人"が、唾棄すべき行為を繰り広げているとなる訳だが、それはいわば民衆が生み出した儒教の葬儀"礼"の物真似、つまり、大仰で形式だけの大騒ぎにすぎない。

(参考邦訳) 段成式[今村与志雄 訳]:「酉陽雑俎」東洋文庫/平凡社 1980・・・訳と註のみで、原漢文は非掲載.

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