表紙 目次 | ■■■ 「酉陽雑俎」の面白さ 2017.10.5 ■■■ 熟成鹿肉食い白魚大好物の男の話。・・・荊有魏溪,好食白魚, 日命仆市之,或不獲,輒笞責。 一日,仆不得魚, 訪之於獵者可漁之處,獵者紿之曰: “某向打魚,網得一麝,因漁而獲,不亦異乎?” 仆依其所售,具事於溪。 溪喜曰: “審如是,或有靈矣。” 因置諸榻,日夕薦香火。 歴數年不壞,頗有吉兇之驗。 溪友人惡溪所為,伺其出,烹而食之, 亦無其靈。 [續集卷三 支諾皋下] 荊州[@湖北南部]にいた魏溪という男の話。 白魚が好物だった。 日々、僕に命じて市場で調達させた。 時に白魚が獲れず、入手できないことも。 そうなれば笞で打って責めた。 ある日のこと、僕は魚が得られなかった。 そこで、猟師[漁師ではない.]を訪問し、 漁撈のできる場所を尋ねた。 ところが、猟師は欺いて語ったのである。 「某は、向こうで、魚を取ろうと網を打った。 すると、網のなかに1頭の麝/じゃこうじかがかかっていた。 漁なのに獲れた訳で、 これはまた"異なる事"とは、言え無いでしょうか?」 僕は、そこで聞いた通りに、つぶさに魏溪に伝えると、 喜んでくれ、言うことには、 「それが本当かつまびらかにするように。 或いは、霊験あらたかということかも知れぬし。」 と言うことで、榻[牛車の乗降用台]に諸々のモノを置き、 昼となく夜となく、薦を被せて香を焚いた。 すると、頗る、吉兇の験が現れたのである。 魏溪の友人は、その所作を悪しきことと考え、 魏溪外出の折に伺い、それを烹て食べてしまった。 すると、霊験は消えてしまった。 白魚をどのように料理するのかわからぬが、好きになると止まらないもののようである。梁の文官で、好学で敬虔な仏教徒の大好物が、白魚、干タウナギ、糖蟹だったというし。[→] しかし、白魚が調達できぬだけで、主人から笞で打たれるのだから、身分制とは過酷なものである。 そういう状況での、"霊験あらたか"とか、"凶兆あり"という話がどのような意味を持っているのか、いみじくもみせてくれた。 幽鬼を信じない成式だが、それを信じる人々がいておかしくないし、その祭祀をも肯定的に受け入れる理由がこの辺りにありそう。 そう考えると、崇め奉っている麝を煮て食べてしまったという話は笑わせる。そんなものを、くだらん場所で祀ってどうする気だ、という主張に見えるが、その実、鹿肉の熟成度を勘案して一番美味しくなった時を見計らい、食べてしまったのである。 なかなかの知恵者であるのゥ、といったところ。 グルメの成式のことだから、麝肉ならサッと油通ししてから、じっくりと煮て黒胡椒風味に仕上げれば絶品の筈だ、と言ったに違いなく、そこでひとしきりサロンの会話が盛り上がる訳である。 それなら、続巻に収載するか、となったのでは。 (参考邦訳) 段成式[今村与志雄 訳]:「酉陽雑俎」東洋文庫/平凡社 1980・・・訳と註のみで、原漢文は非掲載. 「酉陽雑俎」の面白さの目次へ>>> トップ頁へ>>> (C) 2017 RandDManagement.com |