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■■■ 「酉陽雑俎」の面白さ 2017.12.20 ■■■

ご利益満載の新興教派

「洛陽での算命師のお告話」が公式記録だが、ここでは蜀の金天王崇拝の話になっている。[續集卷二 支諾皋中]・・・

相國李公固言,
元和六年下第遊蜀,遇一老姥,言:
 “郎君明年芙蓉鏡下及第,後二紀拜相,當鎮蜀土。
  某此時不復見郎君出將之榮也。”
明年,果然状頭及第,詩賦題有“人鏡芙蓉”之目。
後二十年,李公登庸,其姥來謁。
李公忘之,姥通曰:
 “蜀民老姥嘗囑季女者。”
李公省前事,具公服謝之,延入中堂見其妻女。
坐定,又曰:
 “出將入相定矣。”
李公為設盛饌,不食,唯飲酒數杯。
即請別,李固留不得,但言乞庇我女。
贈金p襦幗,並不受,唯取其妻牙梳一枚,題字記之。
李公從至門,不復見。
及李公鎮蜀日,
盧氏外孫子九齡不語,忽弄筆硯,李戲曰:
 “爾竟不語,何用筆硯為?”
忽曰:
 “但庇成都老姥愛女,何愁筆硯無用也。”
李公驚悟,
即遣使分詣諸巫,
巫有董氏者,事金天神,即姥之女,言能語此兒。
請祈華嶽三郎,如其言。
詰旦,兒忽能言。
因是蜀人敬董如神,
祈無不應,富積數百金,恃勢用事,莫敢言者。
相國崔鄲來鎮蜀,遽毀其廟,投土偶於江,
仍判責事金天王董氏杖背,遞出西界。
今在貝州,李公婿盧生舍之於家,其靈歇矣。

最高位官僚を務めた李固言[782-860年]の話。
元和六年
[811年]に落第してしまい、蜀で遊んだが、
そこで一人の老婆にであい、その言うことには、
「郎君は、翌年に"芙蓉飾りの青銅鏡"のお蔭で及第します。
 その後、十二支が2巡りすると相を拝命するでしょう。
 そして、この蜀の国をおさめることになりましょう。
 某は、その時、再びお会いできず、
  郎君が將となり栄進されたお姿は拝見できませんが。」と。
その翌年、その通りに、筆頭で及第したのである。
試験に出た詩賦の題の項目に"人鏡芙蓉"があった。
その後20年経ち、李固言は登用されることになり、
あの老婆が拝謁しに来訪。
しかし、李固言はそれを失念していた。
老婆が言うことには、
「蜀の民である老婆でございます。
 嘗て、季公殿に娘を託した者なのですが。」と。
李公は昔のことを省みて想いだし、公服を着用して深謝。
中堂に引き入れて、妻と娘と共に会見させた。
坐して落ち着いてから、老婆が言うことには、
「出ては将とない、入りては相となる定めでございます。」と。
李公は御馳走を用意させたが、老婆は食べなかった。
只、数杯の酒を飲んだだけ。
老婆は、即座に、お別れを請うた。
李公は引き留めようとしたがかなわず。
唯、自分の娘の庇護を乞い求める言葉を発するのみ。
金装飾の布靴、細絹の短衣、女性用冠を贈ったのだが、どれも受け取らず。
ただ、その妻の象牙製櫛1枚を取り、
 その上に記念として題字を記した。
李公は門まで見送った。
それ以後、相い見まえることはなかった。
時は経ち、李公が蜀をおさめる日が来た。
(837年10月、李固言、成都尹、剣南西川節度使赴任。)
盧氏の外孫子は9才になっても言葉を放さなかった。
ところが、この時に忽然と、忽弄筆と硯を弄んだのである。
李公は戯れに言った。
「なんということ。言葉も発せないのに。
 筆と硯に、一体、どんな用途があるのかネ?」と。
突然、その外孫が口を開いた。
「ただ、成都の老婆の愛しい娘を庇護してくれさえすれば、
 筆も硯も無用といった愁いなど浮かぶ筈がないでしょう。」
これには、李公驚愕。そして、悟ったのである。
ただちに、使いを分担して派遣し、諸巫に詣でさせた。
その巫のなかに、董氏がいて、金天神の儀式役をしていた。
それが、さる老婆の娘。
その児に言語能力をつけることができると言った。
そして、"華嶽三郎"へ請願祈祷し、言った通りに取り計らった。
("華嶽三郎"とは発財ご利益で人気の関羽聖帝君と違うか。金天王崇拝とされているからだが。)
翌日の朝、子供は忽然と、ものが言えるようになったのである。
このことがあってから、蜀の人々は、董氏を神のように敬った。
その祈祷は反応無しということが無く、
 富が積み上がり、百金にもなった。
その勢をたのみとして、儀式を役割を牛耳ったのだが、
 そのことを敢えて言う人はいなかった。
その後、最高位官僚の崔鄲の時代に入った。
そして、蜀に着任して、おさめることになった。
すると、あわただしくも、その廟は毀損されてしまい、
 土偶は河川に投げ捨てられてしまった。
よって、裁判が行われ、
金天王崇拝の責を問われた董氏は背への杖刑に処せられた。
その上で、西界に追放されたのである。
今は、貝州
[@河北清河]に居る。
李公の婿である盧生の家の舍に住んでいるのだが、
その霊験は止んでしまった。


収載に踏み切った成式の気分が察せられる箇所である。
おそらく、最後まで、どうするか迷った挙句に決断したと思う。

すでに述べたが、成式は、蜀の人々の信仰を仏教や道教の範囲では考えられぬ、"訳のわからぬ"ものと見ている。
高級官僚の多くは、その手の信仰を流布する宗教人を敵視しているように見えるが、ご利益や、お告げにメリットがあるなら、後生大事に擁護するというご都合主義そのもの。しかし、一線を越えた新興宗教に対しては、抹殺行動止む無しの場合も。河神への人身御供に興じるような教団を野放しにする訳にはいくまい。[→]
しかし、成式は、宗教勢力が反国家反社会的姿勢をとらないなら、その信仰を"暖かく"見守る姿勢をとるべしと考えているのは間違いない。だからこその、このお話の収録と見てよいだろう。
土着の人々の"訳のわからぬ"信仰を無碍に足蹴すべきでないと考えているのである。どこで一線を引くべきか考える必要があると指摘したかったのであろう。

(参考邦訳) 段成式[今村与志雄 訳]:「酉陽雑俎」東洋文庫/平凡社 1980・・・訳と註のみで、原漢文は非掲載.

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