表紙 目次 | ■■■ 「酉陽雑俎」の面白さ 2017.12.23 ■■■ 持念治魅魚の怪ということになるのだろうか。[續集卷二 支諾皋中]・・・姚司馬者,寄居汾州,宅枕一溪。 有二小女常戲釣溪中,未常有獲。 忽撓竿各得一物,若鱣者而毛,若鱉者而鰓。 其家異之,養以盆池。 經年, 二女精神恍惚,夜常明燈銼針,染藍涅p, 未常暫息,然莫見其所取也。 時楊元卿在邠州,與姚有舊,姚因從事邠州。 又歴半年,女病彌甚。 其家張燈戲錢,忽見二小手出燈下,大言曰: “乞一錢。” 家人或唾之,又曰: “我是汝家女婿,何敢無禮。” 一稱烏郎, 一稱黄郎, 後常與人家狎熟。 楊元卿知之,因為求上都僧瞻, 瞻善鬼神部,持念治魅,病者多著效。 瞻至其家,標紅界繩,印手敕劍召之。 後設血食盆酒於界外。 中夜,有物如牛,鼻於酒上。 瞻乃匿劍,蹝歩大言,極力剌之。 其物匣刃而走,血流如註。 瞻率左右明炬索之, 跡其血至後宇角中, 見若烏革囊,大可合簣,喘若革囊,蓋烏郎也。 遂毀薪焚殺之,臭聞十余裏。 一女即愈。 自是風雨夜,門庭聞啾啾。 次女猶病, 瞻因立於前,舉伐折羅叱之,女恐怖泚額。 瞻偶見其衣帶上有p袋子, 因令侍婢解視之,乃小籥也。 遂搜其服玩,遂搜得一簣, 簣中悉是喪家搭帳衣,衣色唯黄與p耳。 瞻假將滿,不能已其魅,因歸京。 逾年,姚罷職入京,先詣瞻,為加功治之。 浹旬,其女臂上腫起如漚,大如瓜。 瞻針刺之,出血數合,竟差。 姚司馬が邠州[725年豳州改名@陝西彬県]に寄留していた時のこと。 屋敷の下方に渓流があった。 その姚司馬には娘が二人いて、その川でしょっちゅう釣りをして遊んでいた。と言っても、漁獲無しが常。 ところが、どうしたことか、それぞれの竿に当たりが来たのである。 引き上げてみると、鰻のようだが毛が生えており、亀に似ていたが鰓があったのである。 屋敷に持ち帰ったので、家では、これは異なるモノとなり、結局、庭の盆池に放して飼うことにした。 それから何年か経った。 二人の娘は、気が觸れたように精神恍惚状態に。しかも、夜は眠らず、明々と燈火をつけ針作業をしたり、藍色に染めたり、黒色にしたりとおかしなことのし続けで、休息もとらなかった。しかるに、その取りついたモノが何かは見当もつかなかった。 その頃、楊元卿[n.a.-833年]は邠州に出向中[刺史]だった。舊友だったので、姚司馬はその下で官職を得ることになった。 (楊元卿は、「舊唐書」巻百六十一列伝第百十一や「新唐書」巻百七十一列伝第九十六に記載されている節度使の任にも当たった軍人。) そうして半年たったのだが、姚司馬の娘達の病状はさらに甚だしいものになってしまった。 姚司馬の屋敷では、部屋に燈火を灯して"錢遊び"に興じていた。 すると、なんとその明かりの中から、突然、2本の小さな手が伸び出てきて「一銭をくれ!」というのである。 すかさず、家人のなかの者が、そやつらに唾を吐いた。 なんとその2本の手は「またもや言葉を吐いた。 「私はこの家の娘婿だゾ。なんたる無礼なことをするのダ。」と。そして1本の手は「烏郎」と名乗り、もう1本の手は「黄郎」と名乗ったのである。それからというもの、家人達となれなれしく振舞うようになった。 楊元卿はこのことを知り、なんとかしようと、都に居る僧侶の瞻に頼んでみた。瞻は、鬼神の部類に詳しく、持念治魅を得意としており、顕著な効果が多くの病人であがっていたからである。 早速、瞻は姚司馬の屋敷にやって来て、紅色の縄で結界を作り、手で印を切り、剣でいましめ、魑魅を召した。その上で、血のしたたる供犠となみなみと酒を注いだ盆を結界の外に設置した。 夜半になり、牛の如きモノが登場し、酒の上に鼻をつきだした。 そこで、瞻は劍を秘匿して、舞履で歩んでいき、大声を出して、極限まで力を出し切って魑魅を刺した。 そのモノは剣が刺さった箱のようになったが、そのままで遁走。血がそこに留まっているかのように流れた。 瞻は周りの者共を引き連れ、燈火で照らしながら魑魅を探索した。その血の跡を辿っていくと、後ろの屋根隅に行き着いた。そこには、烏の革嚢のようなものがあった。その大きさは、簣[竹籠]を合わせた位で、革嚢[仏教的にはヒト]のように喘いでいた。おそらくは、これは"烏郎"だろう。 そこで、毀した上で、火をつけた焚火に入れて殺してしまった。異臭が立ち上り、10里以上先まで臭った。 これで、一人の娘は即座に治癒した。 それからというもの、風雨の夜になると、門と庭で啾啾という音が聞こえるようになった。 一方、次女の方だが、猶、病気のママだった。 そこで、瞻は、その前に立ちはだかり、"伐折羅"[金剛杵 or 金剛石]を挙げてこの娘を叱った。娘は恐怖のあまり額から汗ダクダクとなった。 そして、瞻がたまたま見つけたのだが、娘の衣帯の上に黒い小物入れ風の袋があった。そこで、侍婢に命じてそれを解いて中を視た。そこには小さな籥[竹の縦笛に似た穴の開いた錠前]が入っていたのである。 すかさず、娘の服飾玩好物の捜索を行い、遂に、竹籠を1つみつけたのである。その中には、喪中の家が用いる死人用衣服が入っていて、その衣の色はただ、黄色と黒色のみだった。 瞻の休暇期間は将に満了を迎えていたので、その魑魅を退治するまでには至らなかったが、帰京することになった。 年が越え、姚は職を離れて入京した。早速に、瞻のところを訪れ、加持治療に力を入れてもらった。 10日ほど経ると、娘の腕の上に水泡のような浮腫ができて、その大きさは瓜位になった。 瞻は、それを針で刺したところ、数合ほと出血したが、ついに終わりがきたのであった。 戯れに、釣りなどして、他の命が生きていく邪魔などすべきでないヨというご教訓話と言えないこともない。 その場合は、最後に、姚一家は二度と釣りをしなくなったとか、小川が流れるような屋敷には住まないことにしたといった、一行がつく筈だから、そういうことではなさそう。 マ、大陸では仰詔文化の特徴的出土品として、"人面魚紋彩陶盆"が有る位で、魚類に対する尊崇の念があり、山海経にも様々な魚神が登場しており、裏をかえせば罰的な仕打ちを受ける訳で[→]、そこかしこに、この手の話があったと見るべきなのだろう。 (参考邦訳) 段成式[今村与志雄 訳]:「酉陽雑俎」東洋文庫/平凡社 1980・・・訳と註のみで、原漢文は非掲載. 「酉陽雑俎」の面白さの目次へ>>> トップ頁へ>>> (C) 2017 RandDManagement.com |