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■■■ 「酉陽雑俎」の面白さ 2017.12.29 ■■■

[学び] 氣と不死

「老子(道徳経)」の本質は、反天帝というか、宇宙の主宰者の存在を否定する点にあると見た。[→「老子的宇宙論」]

要するに、こういうことでもある。・・・
  天下萬物生於有、有生於無。 [四十章]
この世のすべての物は、生まれたからこそ有るのだが、
何も無い処から生まれたのである。


要するに、
 "有る"と"無い"は対極的な状況を示す訳だが、
 あくまでも、相対的な概念であり、
 夫々が独立している訳ではない、
というのである。

その「有無」とは「生死」の概念でもあるが、そこに至るには、もう一つの概念、「氣」が必要となる。
  萬物負陰而抱陽,沖氣以為和。 [四十二章]
万物は陰と陽を抱えており、
その間にある空間である沖気がこれを調和する。


天と地に分かれたことを、より一般的な法則として、無から陰陽という2つの実体が生まれたと言い換える訳だ。しかし、これは、陰陽の2元で世界が形成されるという方向には進まない。無とか実体のなかに、媒介者としての「氣」が存在しているとの唐突な指摘。読む方は、アッとビックリだが、これによって、イメージ的に万人が納得し易い宇宙観が提示されるのである。と言っても、暗記ばかりさせられてきた教養人だとイメージが湧かないかも。

こんな感覚だろうか。・・・
"無"としか呼びようがない、訳のわからドロドロの混沌状態から、中身の無い半球状の饅頭が出現する。上部にはドーム状の天、下部には平らな地という形で分かれて、出来上がるのである。従って、中空の饅頭になってしまうが、そこには実は餡子がつまっており、それが「氣」。
そんな風に考えざるを得ないのは、以下の記載が上の文章の前に書いてあるから。・・・
  道生一,一生二,二生三,三生萬物。 [四十二章]
道が"1"を生じ、
"1"が"2"を生じ、
"2"が"3"を生じ、
"3"が"万物"を生じる。


"道→天→地→人"という流れを想定していると、道が"1"ということではないかと考えてしまうし、天と地の"2"つに分かれるのに、それが"3"を生むとは一体ナンナンダとなるので、面食らうが、この流れに「氣」が関与していると考えればよいのであろう。
つまり、
道たる原始の「氣」→天と地の「氣」→「沖氣」→万物
ということ。
つまり、無から、天地が生まれるといっても、陰陽的二元論ではないことを説明しているのである。

ちなみに、儒教が受け継ぐ「周易[易経]」に於ける、孔子が解説する八卦は、"0"から陰陽的天地の"2"となるだけ。
  天尊地卑。 [繋辞上 第一章]
"3"も加えたいなら、天地人となる。
「氣」という点では、"押爲物。"[第四章]としているものの、"遊魂爲變。是故知鬼神之情状。"であり、そこに宇宙論的な考えがある訳ではない。
又、"一陰一陽之謂道。"[第五章]となっているが、君子の道の説明でしかない。道は、天に従う姿勢を形而上化した用語にすぎない訳だ。用語は老子と同じでも意味は異なる。
もともとが、"是故易有太極[0]。是生兩儀[2]。兩儀生四象[4]。四象生八卦[8]。"[第十一章]といった、二元論の展開でしかなく、それに氣や道が直接関与している訳ではないのである。従って、"萬物"に至るのも、単なる数の論理以上ではない。

これに比し、老子に於ける「氣」は、天地万物の存在を規定している訳で、宇宙論そのものと言ってもよかろう。
つまり、宇宙とは、その「気」が満ちた空間ということになる。
ただ、それは偏在しているのである。

その辺りは、別書の記載がわかり易い。・・・
  未形,馮馮翼翼,洞洞,故曰太昭。道始于虚,虚生宇宙,宇宙生氣。氣有涯垠,清陽者薄靡而為天,重濁者凝滯而為地。清妙之合專易,重濁之凝竭難,故天先成而地後定。天地之襲精為陰陽,陰陽之專精為四時,四時之散精為萬物。
  [「淮南子」卷三 天文訓]
もともと、"道→天→地→人"であり、そこに「宇宙」の媒介物として「氣」が存在していると見るべし、とのこと。当然ながら、宇宙の一角を担う存在である"人"も、「氣」から生まれることになる。それは同時に死にも樗臆面する。「氣」の調子で、人の生死が左右されることになる訳だ。・・・
  人之生,氣之聚也;聚則為生,散則為死。 [「荘子」外篇知北遊第二十二]
人が生きているということは、生命の構成要素たる気が集合しているということ。
気が集合すれば"生"となるし、離散すれば"死"となる。


"無"から、対立的な2つの"実体"が生まれるとの宇宙観に論理構造が生まれた訳である。"無"は、つかみどころがなく、広がったり狭まったりするなんとも規定しがたい訳がわからぬ一種の状態を指すが、そこから、名があるモノ(実体)が生まれるのである。
インテリの琴線に触れる考え方だし、いかにも哲学的香りを放つが、深い思索の末に導かれた論理ではなかろう。誰が考えても、"氷(固体=モノ化した実体)⇔水(液体=原始の状態)⇔水蒸気(気体=目に見えない媒介者)"の変態のアナロジーであるのは自明だからだ。
だが、大衆にもすぐにわかる比喩表現なので、広く受け入れられたに違いない。
現代用語を用いて、人における「氣」の概念を記述すれば、情報伝達(物質移動/化学変化+エネルギー輸送)の生理化学的作用を指す、とになろう。生命活動=「氣」と言ってよいだろう。(もっとも、ウイルス的存在が知られてしまったから、生理化学的作用で生命を定義づけてよいのかは、なんとも。それに、ヒトにしても、どの状態を死とするかも、ご都合主義的に決定するしかないのが実情。従って、唐と現代の生命観が全く異なるとは言い難い。)

この哲学が普及してしまったお蔭で、不老不死を目指す動きが生まれてしまったと見てよかろう。
(万物は死ぬという文から始まっているものの、伝聞情報の説明で、生にこだわらないと死地も無しと記載している箇所があり、誤解を与えた可能性もあろう。・・・出生入死。…蓋聞善攝生者,路行不遇虎,入軍不被甲兵;兕無所投其角,虎無所用其爪,兵無所容其刃。夫何故?以其無死地。 [「荘子」外篇知北遊第二十二]
老子という人物が神格的存在に祀り上げられたのは、そういう意味で、当然の結果と言えよう。
(「老子」の記述には、本来の寿命を全うするとか、健康で長生きできるとの話はふんだんに収載されているが、不死の実現という話は無い。「無為自然」の姿勢をお勧めしているのだから、常識的には不自然な"不死"を狙うなど、本来は言語道断ということになる。不老不死という概念があろう筈はないのである。しかし、この哲学は、生と死が紙一重ということになる。両者は相対的な存在とされるからだ。従って、いつ何時でも、どちらにでも移動可能という考え方を包含していることになる。)

それは、理解を越える思想の経典宗教が渡来した結果生まれた道佛教的ブームと言えなくもない。
仏教の根本命題は、あくまでも"一切の煩悩からの解脱"だが、その境地とは不生不滅の"涅槃"との講釈がなされたに違いない。説話的には釈尊敬入滅を意味するため、仏教に帰依すれば、現代生物学上の"死"を克服して"不死"を実現できると受け取られておかしくない。
道佛教的に考えれば、"不死"の実現こそが、ヒトが目指す究極の姿とされる訳だ。ただ、道教徒と仏教徒では、その概念は全く違うのであるが。

唐代の金剛経信仰とは、ある意味、道佛教徒が生まれていたということであり、成式は、そのことに、早くから気付いていた可能性が高い。

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