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■■■ 「酉陽雑俎」の面白さ 2017.12.31 ■■■

[学び] 儒教と道教

"「酉陽雑俎」の面白さ"は、2017年末で終わる予定だったが、目を通していない部分がまだ少々残っている。
たいした量ではないから、ザット眺めて一気に「完」として新年を迎えてもよかったが、その前に「学び」シリーズ的に考察文を書いてみることにした。

もちろん、解題という気分で始めた訳ではない。(もともと、創造性の根源たる概念的把握という観点で、極めて優れた書ということで取り上げただけ。知らなかった情報の発掘とか、分析でわかった新しい知識を求めてはいない。)
残っている箇所が、宗教感発露的なものだらけで、今迄取り上げた宗教話とは質的に全く違うからである。こうなると、読む前の準備運動が不可欠。ところが、それが簡単ではないのである。(仏教徒として道徳や倫理の話を取り上げたとか、信仰勧誘的な内容なら、フーンで済むのだが。頭の整理をつけずに読み進むと、間違いなく、"コリャ、ナンダカネ"で終わりかねない話だらけなのだ。)

それでなくても、「酉陽雑俎」はあまりにもジャンルが違い過ぎる話が多く、厄介極まるが、その究めつけといえそうな箇所に取り組むことになる。儒教、道教、なかんづく仏教の思想をある程度わかっていないととても読めたものではないのだ。
(そんな書籍は、普通はそのうち廃棄処分になるものだが、大切に保管し後世に伝えようと考えた知的エリートが存在した訳である。)

・・・と言うことで、せっかくの機会でもあり、儒教や道教について考えている訳である。

不死観念は、道教では不老長生の延長上にあるが、仏教では涅槃の境地の先にあるとの話[→「氣と不死」]をしたので、この辺りから少し見ておこう。

道教も仏教も、基本は薄葬。
しかし、それは葬儀に手を抜くべしという考えではなく、おそらく真逆。しかし、儒教勢力はそのようなな風潮許すまじという姿勢で臨むことになる。(儒教は、宗族統治による社会安定を第一義としており、その観点では極めて原理主義的な宗教。「厚葬回避=宗族否定」と見なすから、薄葬の動きは見過ごす訳にはいかない。)

仏教は釈尊の葬儀が火葬だったから、それが基本形とはいうものの、いわば"空"が教義だから、遺骸に特段の拘りがある筈がなかろう。従って、重要なのは、形なき精神あるいは魂の方。

一方、道教にも、"無"という"空"とよく似た概念があるが、同じようには考えないようだ。身体とは、無形の魂の「依代」であるから、それを消滅させるとこの世には戻ってこれないと考えるようだ。遺骸が消え去ってしまう葬儀は恐ろしい所業となるのであろう。その発想からすれば、永遠なる「依代」に憑依することができれば、命の永遠性を得ることも可能となる訳だ。

その辺りの考え方は、「淮南子」卷七 精神訓の"天地は萬物の父母"で見ることができる。・・・
「1→2→3→万物」という流れが規定されている訳だが、その意味は「無形→二神→二気→陰陽(天地)→八極→萬物」ということらしい。ともあれ、"万物生成"論である。小生は、その根は出産のイメージだと見る。古代の母系制的社会の風土感を受け継いでいるのだと思う。
そして、混濁から生まれるのが"鳥獣介虫"で、清純から"人"とされる。仏教綸年のように"人"が"鳥獣介虫"に生まれ変わるなど全くの想定外。「自然」のなかには階級があり、その境を越えることは無いとの考え方なのだろう。

この階級観が、人の精神とは静清なる"天"そのものとの思想の根拠なのであろう。そして、"天"と"地"からすべてが生まれるという世界観に合わせることで、肉塊とは"安泰たる地"であると考えることになるのだと思われる。・・・

この辺りが道教的感覚の核となっていそう。
つまり、"無"とは、靜漠感であり、それこそが神すべての根源たる明そのものという宇宙観なのであろう。"道"とは、この感覚を研ぎ澄ませることだろうから、自己の生命に徹底的に拘ることになる。従って、"不死"を追求しているというより、この宇宙観から必然的に生まれる信念と考えた方がよさそうである。
そして、その帰結としての肉体への執着となる。そんな土壌から、"仙術"が産まれたのであろう。

当然ながら、教団としての実務的な儀式がこの思想に接ぎ木される。
道教教団の場合は、概して、教団内のルールや倫理秩序の類には関心が薄かったようで、もっぱら"術"の教授である。儀式とは施術そのもの。但し、その対象はあくまでも個々人であり、組織は擬人化されない限り範囲外。社会的な秩序には無頓着だったと見てよさそう。ただ、組織維持のためにパトロンは不可欠だから、それなりの動きはせざるを得ない訳だが。

このような宗教活動であれば、本来的には人格神はなくてもよいのだろうが、術を教えるという点で神格化された教祖は存在するにこしたことはなく、"老君"がその役割を担うことになったのではなかろうか。
…欲修其道,當先暗誦所當致見諸神姓名位號,識其衣冠。
不爾,則卒至而忘其神,或能驚懼,則害人也。
為之,率欲得靜漠幽阯ム麓之中,外形不經目,外聲不入耳,其道必成也。三童九女節壽君,九首蛇百二十官,雖來勿得熟視也。或有問之者,或有訶怒之者,亦勿答也。或有侍從曄,力士甲卒,乘龍駕虎,簫鼓,勿舉目與言也。
但諦念老君真形,老君真形見,則起再拜也。
老君真形者,
 思之,姓李名,字伯陽,身長九尺,黄色,鳥喙,隆鼻,秀眉長五寸,耳長七寸,額有三理上下徹,足有八卦,以神龜為床,金樓玉堂,白銀為階,五色雲為衣,重疊之冠,鋒之劍,從黄童百二十人,左有十二青龍,右有二十六白虎,前有二十四朱雀,後有七十二玄武,前道十二窮奇,後從三十六辟邪,雷電在上,晃晃cc,此事出於仙經中也。
見老君則年命延長,心如日月,無事不知也。”

  [「抱朴子」卷十五 雜應]
仙人の道を目指して修行したいと思う者は、
始めるに当たって、先ずは、
(図録を学んで、)
神々の姓名とその地位名称
(位号)を暗記し
 諳んじることができるようにしなければ。
 そして、衣冠の態を覚え、識別できるように。
   
…[略]…
悟りの境地で、迷わずに老君真形を念ずること。
そうすると、老君真形が見えて来る。
老君真形とは、老子のこと。
   
…[略]…
老子に会えたなら、寿命が延びる。
心は日月の如くになって、
なんだろうと知ることができるようになる。


このような扱いを受けるのだから、老子の哲学は、自然の探求から生まれたものである筈がない。
大道泛兮,其可左右。
萬物恃之以生而不辭,功成而不有。
衣養萬物而不為主,可名於小;
萬物歸焉而不為主,可名為大。
以其終不自為大,故能成其大。

  [三十四章]
道は大きくなると、洪水の如き氾濫状態になり、
 左右にどこまでも拡がってしまう。
万物はこれを頼みにして、生まれるのだが、
 道はそれを
誇らしげに口外したりはしないし、
 その功績があるにもかかわらず、自分の手柄にはしない。
万物を大事に包んで養っているのに、
 道は、自らを主宰者とはしないのである。
 と言うことで、道を"小"と名付けるべきだ。
明らかに、万物は道に帰属している訳であるが、
 道は、自らを主宰者とはしないのである。
 と言うことでは、道は"大"と名付けるべきとなる。
つまり、どこまでいっても、
 道は、自らを"大"と名付けさせないのである。
 だからこそ、道は、本当に偉大な存在に成れるのである。


なにを言いたいのか定かではないが、これを宇宙論としてとらえれば、宇宙はソコ存在しているのではなく、創成されたのであると主張しているのは確かである。しかし、創造者としての人格神が存在している訳ではない。絶対神を措定するとしたら、それは非人格の「道」ということになる。天体運行や四季変化は人格神が携わっているのではなく、「道」に沿った単なる原理にすぎない訳だ。当然ながら、終末論などある筈もなく、救世主という概念は生まれようがない。
天帝を最上神とすることで箔をつけている中華帝国の意向に反しているのは間違いなく、天帝の使命を受けたと称する独裁者への反感あらわと考えることもできよう。独裁者を支える一方である儒教の世界観とは、根源的に水と油の関係になろう。

その『老子』だが、全81章のハイライトは逆説的記載とも言える末尾では。

中華帝国では生き抜くための権謀術数が横行する。その状況を前提として、空論に明け暮れる毎日が続く訳である。
その醜悪な姿を覆い隠すが如き"美的"な詩文をモノするのが嗜みとされる。もちろん、"美的"とは、官僚機構が認知した定番を指すだけのことだが、そうした作品を褒め上げる方法論に熟達することが要求されるのである。
その世界でも、美しさをどう表現するかの競争は熾烈であり、それに勝たねば生き延びることが難しい社会ができあがっている訳だ。
『老子』では、そんな馬鹿馬鹿しい思想に囚われているから低劣な生活に墜ちる破目に陥るのだ、と看破したというのが一般的な解釈であろう。「無為自然」に"還れ"ということだネ、と言うことで納得しがち。
ところが末尾の話でガツンとやられる。
そんな社会にも、まともな人はいると言いだしているからだ。確かに、そんな社会に馴染めない貴族や官僚も少なくなかったろう。食べるためにしかたなく働いていたり、下らぬ競争に飽き飽きしている人は、サイレントマジョリティではないが、それなりに沢山存在していた訳で、そんな人達の想いに応えて一筆したためて『老子』は締めくくられているとも言える。・・・
信言不美,美言不信。
善者不辯,辯者不善。
知者不博,博者不知。
聖人不積,既以為人,己愈有,
     既以與人,己愈多。
天之道,利而不害;
 聖人之道,為而不爭。

  [八十一章]
真実を語る言葉は、全く美しくない。
 一方、美しい言葉とは、真実を語る言葉ではない。
本当に善行に励む者は、弁が立たない。
 一方、弁が立つ者は、善行とは無縁である。
本質を知る人は、博識ではない。
 一方、博識な人は、本質を知っている人ではない。
聖人は自分のために蓄積することはない。
 既に、他人の為に行動する体質ができており、
 それにより、自分が得らるものがあるのだ。
 既に、人の為に行動し、益々多く得て来たということ。
天の道は、利を与えるが、害は及ばさないのである。
 聖人の道は、他人の為の行為を行うが、
  害は及ばさないのである。


仏教徒の成式先生、儒教とは居り合いが悪いが、道士とはそれなりに愉しくおつきあいができたのは、この辺りの感覚が気にいっていたのでは。
但し、当たり前の話を、わざわざ口外するなど愚の骨頂だとの気分で読んだろうから、『老子』はたいした著作ではないという結論に達していたかもしれぬ。ともあれ、尊崇の対象にはならなかったと思われる。

言うまでもないが、成式は仏教徒のインターナショナル性に立脚しており、すでに「無我無心無欲の楽しさ」を知る者達からなるコミュニティで生きていたからだ。『老子』の主張を、なにを今更とりたてて、と感じたに違いない。

(無我無心無欲とは、美味い物に目がなく、お金儲けもし、政治的にも適当に立ち回るということであってもよいのである。・・・西洋的概念でいえば、それは精神的な自由を謳歌することでもあろう。社会のなかで生きていく上で必要なことは何か、それにはどのような意味があるのかを理解した上で、そんなものに自分の"精神"が束縛されないためにはどうするか判断するだけのこと。原理主義とは無縁なのである。「酉陽雑俎」が取り上げている話を読み進めると、その感覚がわかってくる筈である。)

もう一つ敢えて言えば、中華帝国に生きていることに"絶望感"を持つか否かという点で、成式は対立的だったこともあるだろう。老子の主張とは、"古代の薔薇色世界"を儒教が人為的に"暗い絵"にしたというのに等しいが、自然観察眼の鋭い成式にしてみれば、それは儒教の"周代の宗族統治の仕組みは素晴らしい"という主張となんらかわらぬと映ったであろう。

こんな風にとらえると、儒教の実相も見えてくるのでは。
(日本における儒教の解説は社会の一般道徳論に近いので本質は見えてこない。しかも、中華帝国の官僚制社会の秩序維持のために打ち出されている、現代では通用しがたい論調もある訳だが、そこだけは時代の違いの一言で片付けて、他の部分は時代を越えた見方とするという身勝手な操作が行われているので、思想的背景ほとんどわからない。なんといっても、一番の欠点はその一番重要な宗教性を欠いている。一方、中華帝国と朝鮮半島に於ける儒教は、宗教的信仰なのでとらえずらい。)

なんといっても重要なのは、儒教の根幹が宗族第一主義である点。あくまでも、宗族社会という大前提のもとでの信仰である。(日本における氏神様は遠の昔に脱宗族化している。出雲や信濃の宗教にしても宗族信仰ではなく祭祀者が古代氏族を祀るもの。もちろんどの氏族でも発展祈願や墓所共有はなされているが、宗族意識があるとは言い難い。)

言い方を代えれば、宗族社会とは、独裁者と官僚が統治する中華帝国そのものであり、その政治体制の安寧を願う信仰が儒教ということになろう。ママの形で日本社会に取り入れることができなくて当然。
(日本の場合、古事記が描く神々の世界からして、合議された上でリーダーがその方向で動く話が基調となっており、体質が全く異なる。)

おそらく、この"安寧"という点が鍵。
部族的抹殺や大移動を繰り返してきた地であるから、どのような地位にあろうと常に没落・抹消のリスクを抱えており、頼れるものは宗族しかなかったということで、それ以上ではなかろう。
自分が属する宗族の繁栄なくしては、命も含め、どうなるかわかったものではない。当然ながら、他の宗族との協調と角逐の術にも熟達する必要があり、それを支えるのが儒教的道徳観と考えればよかろう。

信仰的には、宗族の祖への信仰が核であり、祖霊との関係性強化の儀式が最重要となる。個々人は長生と富を祖霊の力で実現すべく祈ることになる。すべての人は、常に、宗族との関係性強化を図っておく必要がある訳だ。自らの葬儀も早くから準備しておかねばならないし、遺骸にしても、祖先との紐帯を確認できるような扱い方になる。薄葬などもっての他となる。

はなはだ曖昧ではあるものの、一般的には、"宗教"とは人々の不安や苦悩を解決するための信仰と言えるのではないかと思うが、そのためには普通は宇宙というか世界の真相を示しておく必要があろう。(宇宙創成話が一番わかりやすいが、そうでなくても、信仰の根拠を示せれば十分。)
ところが儒教にはこのセンスが欠落している。天帝や運命共同体的宗族がアプリオリに存在しており、心の支えになりそうな神話の類もゼロ。ただただ祖を信仰せよというだけ。そして、奇妙なことに、木に竹を接いだ如くに倫理がここに加わってくる。いかにも不自然である。
マ、そう感じるのは西洋的な「人間の理性」のセンスから眺めているからかも知れないが。

─・─・─ 【附録】魯迅の反孔子論 ─・─・─
(翻訳者の今村与志雄が魯迅研究者であったから取り上げているのではない。)

孔子の教えを世界に広めようとする習近平政権の下で、毛沢東が仕掛けたクーデターのスローガンたる"批林批孔"本の存在が容認されているのか否かは知るよしもないが、中国共産党的には文化的英雄である魯迅の著作もその一翼を担っていたのは間違いない。
ほとんど忘れ去られていた"現代支那に於ける孔子様"[「改造」1934年@「魯迅選集第12巻」岩波書店 改訂版 1964年]のこと。
孔子の関心はもっぱら為政者の歓心をひくこととの指摘が中心の著述。一言で言えば、孔子にとって、一般大衆のことには全く興味を覚えていないのだゾということにつきる。つまり、支配階級の聖人でしかないということ。従って、そのような御仁をけなせばどうなるか、皆、わかっている筈。儒教の教えについて尋ねれば、それなりの答えが返ってくるのは当然。しかし、廟や像にわざわざ足を運ぶ訳がなかろう。愚民もそこまでは馬鹿ではないのだヨというお話。・・・

《儒教の仁は唾棄すべき概念》
天地不仁,以萬物為芻狗;
聖人不仁,以百姓為芻狗。
天地之間,其猶籥乎?
虚而不屈,動而愈出。
多聞數窮,不如守中。
[五章]
天地には、
(儒教が金科玉条のように重視する)「仁」の慈愛的気持ちなど無い。
(天変地異からくる大災害を見れば一目瞭然で、自然は非情であり、)
万物を、供犠犬を打ち捨てるが如く扱う。
(為政者の長生祈願等のために、供犠が要求され続けている。
 流石に、生贄ではなく、立派に飾りつけられた犬形に替わったものの、
 用無しになれば、単なるゴミとして無残に捨てられる。
 すべての扱いは、コレと同じようなもの。)

聖人と称する御仁にも、
「仁」の慈愛的気持ちなどある訳が無い。
こちらも、一般人
[百姓]を、供犠犬を打ち捨てるが如く扱う。
言ってみれば、天地の間の世界は、
(つまり俗世間のことだが、)
風を吹きおこして火力を上げるフイゴのようなものか?
それは空虚そのものだが、尽きることは無い。
動かせば、動かすほど、ますます風が吹き上がる。
(儒家の所業など、その典型。所詮は、マッチポンプ。
 王侯の領土争いと、高級官僚の人事抗争の火付け役。
 あちらこちら回って歩き、美味い飯にありつこうとの算段。
 孔子など、勝手なことを言うだけで、あとは知らん顔。
 お得意は、逃げの一手。流石、聖人と呼ばれるだけのことはある。
 そのお蔭で、一般人は生きていくことさえ難しい。)

多くを聞いてもらえば、窮地に追い込まれる。
(一家言聞いてくれと、精力的に回ったところで、
 全く役に立たぬ原理主義的演説をするか、
 甘言で歓心を誘うしかなかろう。
 その技量とは、饒舌でしかないことを自覚せよ。
 結果、役立たずとみなされ抹殺されるのがせいぜい。)

結局のところ、
人為的に風を吹かせたりせず、
空虚なそのママの状態を守るにしくはなし。


世は、どこかの王侯に召し抱えてもらおうと蠢く政治屋だらけ。
頭のなかだけで、世界はこうあるべしと、大演説をすることで喰っていこうという人が大増産されたのである。
マ、それが、お気楽な生活を送れる早道であるから、当然の流れ。重税と戦乱で疲弊している社会の底辺の人々にかまってはおれぬのだ。

《儒教の経典暗記は百害のみ》
大道廢,有仁義;
智慧出,有大偽;
六親不和,有孝慈;
國家昏亂,有忠臣。 
[十八章]
無為自然という姿勢は忘れ去られ、
今や、大道の精神は廃れてしまった。
その結果、
儒教勢力が
仁義を大切にするように定めたのである。
智慧ある儒者が登壇し、
 道徳的な時代到来と、大嘘をついたにすぎぬ。
お気付きだと思うが、親子・兄弟・夫婦は、今や、不和だらけ。
従って、孝行とか、慈愛が重要視されるようになり、
 そんな例が取り上げられるようになったのである。
国家にしても、見ての通り、混乱の極み。
そうなれば、当然ながら、忠臣が矢鱈に目立つ訳である。


《儒教との絶縁のお勧め》
絶聖棄智,民利百倍;
絶仁棄義,民復孝慈;
絶巧棄利,盜賊無有。
此三者以為文,不足。
故令有所屬:
見素抱樸,少思寡慾。
絶学無憂。
[十九章]
聖人を絶滅せしめ、智者を棄ててしまえば、
 
(と言うか、そんな輩を官僚に起用しなければよいだけのことで、)
 たったそれだけで、民の利益は一挙に100倍に達しよう。
仁など根絶やしに、義も捨て去ってしまえば、
 
(と言うか、為政者は儒者がおしつける徳を払いのければよいだけのことで、)
 民の社会に、すぐに、孝行や慈愛が戻ってくるのである。
技巧を貴重とする動きと絶縁し、利益を廃棄することができれば、
 それを狙う盗賊がいなくなるのは自明。
この3つの話だが、文章にはなっているものの、説明不足かも。
そういうことで、この3つをまとめることにしよう。
先ずは、飾らずに素であること。そして、朴訥な態度を貫くこと。
次に、思いは軽く、欲は少なくを徹底すること。
そして、儒学と絶縁し、憂うることを止めるに限る。


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