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■■■ 「酉陽雑俎」の面白さ 2018.1.11 ■■■

[学び] 夏目漱石を考える

段成式のサロンは、"清坐一味友"だったのではなかろうか。そこでは、"不請勝友 "であり、"無師智"の世界。自然体で"無作妙用"の状態とも言える。
垂示云、以無師智、發無作妙用、以無縁慈、作不請勝友。 [「碧巌録」第六十二則]

「酉陽雑俎」には奇譚が数多く収載されているが、それは面白がって収集したものではないのは自明。

しかし奇書として扱われて来た。

仏教世界にしても、経典類に描かれている世界を道教と対比的に描いてみせた「貝編」、長安の寺院の芸術観賞随筆「寺塔記」に加えて、霊験談の「金剛經鳩異」を一緒に組み込んであるのだから、確かに珍しい企画であるのは間違いない。
だからこそ、一部のインテリがその事実に基づく批判的精神に惹きつけられ、書庫に残っていたと見るのが妥当。だが、それこそがいけ好かないという人々も少なくない。"組織的暗記"で群れ集う自称インテリには排除されがちな本だったのである。

"自己本位+則天去私"で知られる夏目漱石は、40冊ほどの禅宗を核とした仏教がらみの書を揃えており、碧巌録を筆頭に、六祖や臨済関係の原典によく目を通していたようだ。禅門法語集を3冊揃えており、そこには書き込みがあるところから、公案については特に関心が深かったのは間違いない。ただ、「金剛般若経」の名前は無い。
とはいえ、漱石サロンの人々は玄関に入ると、そこに置いてある金剛経の拓本屏風を眺めさせられたのだ。漱石はそんな仕掛けを大いに楽しんでいたのである。

にもかかわらず、「酉陽雑俎」に関係しそうな書籍は見かけない。小生など、「酉陽雑俎」のような知的"遊び"と、公案[公府の案牘]解釈で呻吟するのとにたいした差が無いと見るから、まことに残念なこと。
[「漱石全集」第二十七巻"和漢書目録" 岩波書店 1997年]

マ、そう思うのは、"訳のわからぬ"公案[公府の案牘]を用いる修行について、漱石が大いに批判的だったから。(白隠慧鶴[1686-1768年]禅師が作成した階梯式カリキュラムということであろう。)実際、常識人がそれを読んで順当に理解可能なのは一部であって、ほとんどが荒唐無稽な断片的問答である。
しかし、それは一般読者用ではないのであり、信仰に入ろうとする人々用なのであるから当然。漱石は勘違いしているのではないか。
教義は宗教家の数だけあると言ってもよく、どうにでも解釈できる文章や、信者以外はナンノコトヤラで結構なのである。(お経を、誰も一度も聞いたことのない言語で唱え、一体誰に聞かせたいのか考えればわかろう。)
禅宗だけが違う訳がなかろう。他宗派なら、こういうこと。・・・
  真言宗「光明真言」
  浄土宗「念仏」…南無阿弥陀仏
  浄土真宗「名号」…南無不可思議光如来
  法華宗「題目」…南無妙法蓮華経

そのような信仰に特段の違和感を覚えないにもかかわらず、不思議なのは、漱石もそうだが、「霊験譚」の方には知らん顔をする態度。小生には、上記と全く同一レベルの信仰であると思うが。
段成式にしたところで、父親に見習い「霊験譚」をそのまま信じるような人間ではなかろう。「霊験譚」を生み出す、ヒトの心と社会の問題を見てとっている訳で、そこらは避けてはとおれないゾと言っているだけ。鬼神を全く信じていないくせに、そのような信仰に凝り固まる人々を暖かい目で見つめるのと全く同じ視線と言ってよいだろう。
米どころから来た新入りに、老僧が米の価格を尋ねるという公案を選ぶ心情は共有している訳だが、珍紛漢な公案など学ぶのは経典雑学と代わりがないのである。連句には、ほとんどの人が忘れている逸話から、そんな語句を引いてきているが、まさに秀逸というか、絶大なる皮肉の一発ならぬ、連発である。もっとも、それがわかるインテリ以外は笑えない訳である。

もともと、当時の多くの出家者は、徴兵逃れや、労働嫌悪、はては世渡り上手になるための手練手管を学ぼうというクチが多かったのは間違いない。果ては、盗賊や誘拐で喰う僧侶さえ存在したのである。(ただ、用心深いから、寄進については余り触れていない。ビジネスマン的な常識からすれば、現代で言えば、胡散臭い財団法人設立に似た動きがあってしかるべきとなろう。)「酉陽雑俎」は金剛経の霊験談を収載する一方で、そのような話も堂々と掲載している訳である。
出家の意志を示されれば、それを信じるより手が無いから、これを防ごうとしたところでまさに徒労。しかし、そんな状況でありながら、自分達のことを"働かない大ドロボウ"と呼ぶ老師は滅多にいないのが実情。(成式サロンはその辺りを百も承知の人々が集まっていた訳である。)

ともあれ、金剛般若経は大乗仏教の原点と言えそうな経典だが、そこには、はっきりと、お経自体が霊験あらかたなりと記されているのである。
もちろん、臨済宗が重視する、宋代の百則の公案集「碧巌録」第九十七則 にもそれは引用されている。・・・
《金剛經》云:「若為人輕賤,是人先世罪業,應墮惡道。以今世人輕賤故,先世罪業,則為消滅。」
若しも、他人に軽蔑されたなら、
それは、その人が先の世で行ったことの罪の反映。
その対応としては、地獄のような悪道に陥るのが本筋。
ところが、
今の世で、軽蔑される程度のことで、先の世の罪がたちまちにして消滅したのである。


ただ、原文[能浄業障分第十六]の、前後が省略されている。
【直前】「復次,須菩提!善男子、善女人,受持讀誦此經,
また次に、須菩提よ、善男子善女人、この経を受持し、読誦して、
【直後】當得阿耨多羅三藐三菩提。」
まさに阿耨多羅三藐三菩提[完璧な悟り]を得べし。

【残り】「須菩提!我念過去無量阿僧祇劫,於燃燈佛前,得八百四千萬億那由他諸佛,悉皆供養承事,無空過者;若復有人,於後末世,能受持讀誦此經,所得功コ,於我所供養諸佛功コ,百分不及一,千萬億分,乃至算數譬所不能及。」
「須菩提!若善男子,善女人,於後末世,有受持讀誦此經,所得功コ,我若具説者,或有人聞,心則狂亂,狐疑不信。
 須菩提!當知是經義不可思議,
 果報亦不可思議!」


ここらで、漱石の批判的態度について語っておこう。(この手の話をする人は少ないだろうから、馴染みが薄いかろう。)・・・
禅家の要ハ大ナル疑ヲ起シレ我ハ是何者と日夕刻々討究スルニアルガ如し。
我ハ是何者ト疑ツテ寝食ヲ廃スル者ハ西洋ニモアルベキ道理ナリ。
真ニ逢着セント欲スル者ハ皆多少此疑ヲ抱クガ故ニ求真ノ念セ切実ナル泰西ノ学者ハ皆コヽニ懸命ナル精彩ヲ着スベキ筈ナリ。
然ルニ希臘以来未ダ嘗テ我ハ悟ツタト吹聴シタル者ヲキカズ。
怪シムベシ。
要スルニ非常ニ疑深キ性質ニ生レタル者ニアラネバ悟レヌ者トアキラメルヨリ致方ナシ。
従ツテ
【隻手ノ声】、【柏樹子】、【麻三斤】悉ク珍紛漢ノ囈語ト見ルヨリ外ニ致シ方ナシ。
珍重。

[「漱石全集」第二十七巻"蔵書への書き込み" 岩波書店 1997年---山田孝道[編纂]:「校捕点註 禅門法語集」(明治40年)扉の裏に書き込み@1907年]

漱石に"珍紛漢な囈語"とみなされた公案はこういう内容。
隻手音声@白隠慧鶴:「藪柑子」宝暦3年
両掌で打って初めて音が生まれる。片手を出して、妙なる音ありと言われて、それを感じる人はいまい。耳で聞くことができるようなものではないが、五感を離れた境地に至れば違うゾと言うのであろうか。
尚、隻手の声を聴いている暇があるなら、両手叩いて商売に精だ出せという話も有名である。

庭前柏樹子@「無門関」第三七則 趙州録
如何是祖師西來意。師云、庭前柏樹子。
夏目漱石:「草枕」では…
いかなるこれ仏と問われて、庭前の柏樹子と答えた僧があるよしだが、もし同様の問に接した場合には、余は一も二もなく、月下の覇王樹と応こたえるであろう。
天竺渡来の達磨大師の目的は、庭に立つている目の前にある一本の柏の木だというのである。解説書を読んだことはないが、これこそ、禅の真髄と書いてある筈。

洞山三斤@「無門関」第十八則
洞山和尚。因僧問。如何是佛。山云。麻三斤。
佛の麻製衣の一着分反物の分量。一般的には、作務衣で農作業中だったと解釈するようだが、そんな時に質問するのは非常識極まると思う。修行のためには猫を殺すような乱暴行為も是認するようだから、そのように考えてはいけないかも知れぬ。そもそも、そのような点が気になる世俗的な間抜けな輩は禅にかかわるなという戒めでもあろう。[「無門関」第十四則 南泉斬猫]
  → "酉陽雑俎的に「無門関」を読む"

白隠禅師式プログラムでは、入門初級コースでは「趙州無字」、「隻手音声」、「不思善悪」、「庭前柏樹子」の4ツが必須と思うが、上記ではそのうち3ツに「仏とはどんなものですか?」の問題を入れている。
素人的には、こちらの方が面白い。
「佛」という概念が定まっている訳ではなく、それだからこそ「佛」なのであるという強引な論調だらけにならざるを得ないからだ。ついでながら、「無門関」の「如何是佛」系は他にこのような公案がある。
即心即佛@第三十則
馬祖因大梅問。如何是佛。祖云。即心是佛。
馬祖道一[709-788]禅師は大梅法常[752-839年]に尋ねられた。
「仏とはどんなものですか?」と。
「まさしく心が、即、仏なのだ。」

非心非佛@第三十三則
馬祖道一禅師は大梅法常に尋ねられた。
「仏とはどんなものですか?」と。
「心ではなく、仏でもない。」

雲門屎@第二十一則
雲門因僧問。如何是佛。門云乾屎

これは、ここまでにして、漱石参禅について知られている話を引いておこう。一般には、その"成果"が「門」で語られている訳である。・・・

1894年12月23日(日)〜1月7日のこと。
漱石は円覚寺帰源院に滞在し参禅。管長の釈宗演から六祖慧能大師の「父母未生以前本来面目如何」との公案を与えられた。[「漱石全集」第二十七巻"年譜" 岩波書店 1997年]結局、答えを得ず挫折したのであろう。
夏目漱石:「門」[朝日新聞連載 1910年]では、主人公宗助は勤を休んで、紹介してもらった鎌倉一窓庵の僧 釈宜道を訪れる。そして、老師のもとへ伴れて行ってもらうと、「父母未生以前本来の面目は何だか、それを一つ考えて見たら善よかろう」との公案を考えてみよと言われる。宗助には禅の知識はなかったが、悟という美名に欺かれて、平生に似合わぬ冒険を試みようと企てることに。
しかし、結局のところ、直截に生活の葛藤を切り払うつもりで、かえって迂濶に山の中へ迷い込んだ愚物であることに気付かされることに。
門を開けて貰いに来たが門番は扉の向側にいて、敲いてもついに顔さえ出してくれず、
「敲いても駄目だ。独りで開けて入れ」と云う声が聞えたという結果に終わったのである。

公案アンチョコの作者未詳(臨済宗):「宗門葛藤集」第二則にはこのように。(上述した、「如何是佛」系必須公案であり、「無門関」第二十三則不思善悪に語句を追加したもの。[→])・・・
六祖因明上座趁至大嶺。
祖見明至、即擲衣鉢於石上云、此衣表信、可力爭耶、任君將去。明遂擧之、如山不動。踟掬悚慄明云、我來求法、非爲衣也。願行者開示。
祖云、
 「
不思善不思惡、正與麼時、
  那箇是明上座
本來面目。」
明當下大悟、遍體汗流。
泣涙作禮問云、
 「上來密語密意外、還更有意旨否。」
祖曰、
 「我今爲汝説者、即非密也。
  汝若返照自己面目、密却在汝邊。」
明云、
 「某甲雖在黄梅隨衆、實未省自己面目。
  今蒙指授入處、如人飮水冷暖自知。
  今行者即是某甲師也。」
祖云、
 「汝若如是、則吾與汝同師黄梅、善自護持。」

六祖 慧能は
(五粗により法嗣とされたが、寺男にすぎない。
師の言いつけ通りに、独り、南方の山へと逃げるが如くに去っていったのである。僧侶達は、法嗣は、当然ながら、格別優秀な一番弟子たるべしと考えていた。そこで、その証拠品を取り返すべく後を追った。)

惠明上座が大嶺までやってきたのを見て、法嗣の証である五粗から頂戴した衣と鉢を石の上に置いて、この衣は"信"の表象だから、力で争って入手可能なものとは違う。貴君に任せるから、将に持ち去ればよかろうと語った。
早速、惠明上座は、ソレを持ち上げようとしたが、山の如くで動く気配がしない。躊躇と共に、戦慄に襲われたため、我は法を求めてやってき来たのであり、衣入手の為ではござらぬと言った。
そこで、六祖は
「善を思い、悪を思うことをやめよ。
 この時、惠明上座の本来の自己とは、どのようなものか?」と。
この言葉で、惠明上座は大悟。全身に汗が流れたのである。
涙を流しながら、拝礼し、質問。
「この密語密意の外に、更に別の意旨がありや無しや?」
六祖は言った。
「我が今、汝の為に説い説いたるところは、全くもって秘密に非ず。
 若しも、汝が自己の真面目に目覚めたなら、
  秘密とは、かえって、汝のなかに存在しているということ。」と。
惠明上座は言った。
「某は黄梅の地で、他の僧等に追随して修行に励んでまいりましたが、
  実のところ、自己の真面目に目覚めることはできませんでし
た。
 今、御指図を頂戴し、
  人が水を飲んでその冷暖を知るように、自知できました。
 今、わかりました。
  行者様こそ、某の師でございます。」と。
六祖は言った。
「汝がかくの如きなら、
  即ち、吾も汝も黄梅の地の五祖を師と仰ぐ一門。
 善を護持するように。」


このまま受け取れば、軍人あがりで、疲れを知らずに追って山に入るような大の男が、粗末な僧衣一着を持ち上げられなかったことになる。はたして、奇跡であろうか。
あるいは、衣を持ち帰る理屈をつけることができなかったので、持ち上げられなかったのか。
どうだろうとかまわぬが、これなかりせば、どうなったのであろう。しかし、そんなことはあり得ぬというのが、宗教の基本スタンスであろう。
たまたま、六祖の話になっているだけで、これは金剛経を念じたことで救済される話と本質的にはなにもかわらぬのでは。
九死に一生を得て、人生観が一変し、自分は生かされているに過ぎないとの感謝の念がフツフツと湧いてきて、その後の命を宗教活動にすべて捧げた人は少なくなかろう。すべてを棄て、他者の為に生きるその姿勢に感じ入るのは、当たり前の感覚ではないか。霊験譚とはそういう性格のものであろう。

しかし、言うまでもないが、そのような人は例外中の例外的存在である。それを一般化するのが、信仰の世界と言える。

段成式的歴史観からすれば、結局のところ、中華帝国では仏教は廃れるしかないとなろう。仏教弾圧を目のあたりにして、それはほぼ確信だったに違いないのである。すでに、天竺周辺のインド帝国から仏教は駆逐されつつあった訳で。残るのは、倭国かもと考えていてもおかしくはないのである。

という風に考えるので、漱石が「酉陽雑俎」に触れていなかったとしたら、まことに残念という訳。

ふと、段成式が漱石の時代にいたら、どのような態度を示しただろうか、と考えてしまう。

おそらく、漱石とは異なり、"珍紛漢な囈語"だからこそ面白いではないかということで、半ば皮肉を込めて臨済禅を支持したかも。
白隠型のカリキュラムは、まるで儒教のように、個人の精神領域にズカズカ踏み込む概念おしつけ教育の印象を与えるから、嫌っただろうが、その成果をママ観察する人でもあったから、賞賛まではいかなくとも、是認したに違いない。白隠禅師のお蔭で、消滅しかかった臨済禅が復興できた訳で、これが、新しい概念や考え付かなかった美を創出する"芸術"を開花させることに繋がったのは明らかなのだから。
段成式とは、そのような社会を待ち望んでいたと思う。様々な形で、自己をトコトン追求する人々が共存し、互いに刺激を与えあうことができるほど楽しいことはなかろうということで。言うまでもないが、それは、独裁者と官僚が統制する帝国では敵視される文化以外のなにものでもない。

(参考邦訳) 段成式[今村与志雄 訳]:「酉陽雑俎」東洋文庫/平凡社 1980・・・訳と註のみで、原漢文は非掲載.

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